『ザ・マジックアワー』(2008)
映画考察・解説・レビュー
『ザ・マジックアワー』(2008年)は、三谷幸喜が監督・脚本を務めた、映画愛と狂気に満ちたノンストップ・コメディ。舞台は架空の港町・守加護(すかご)。ギャングのボスの愛人に手を出してしまったホテル支配人が、生き延びるために「売れない三流役者を伝説の殺し屋に仕立て上げる」という、一世一代の大芝居を打つ。
種田陽平が東宝スタジオに建設した狂気のユートピア
三谷幸喜は、本質的に現実を信じていない作家なのかもしれない。あるいは、現実という不確定な要素が混入することを病的なまでに嫌う、制御の鬼と言うべきか。
彼が映画監督として4作目に選んだ『ザ・マジックアワー』(2008年)において、その執念は狂気じみた領域へと達した。物語の舞台となる港町「守加護(すかご)」を描くにあたり、彼は既存のロケ地を一切拒絶したのである。
ロケ撮影じゃ、電柱の位置ひとつ、看板の色ひとつ、自分の思い通りにはならない。そう考えた彼が下した決断は、東宝スタジオ(旧・東宝砧撮影所)の第1、第2、第6ステージという巨大スタジオに加え、広大な屋外スペースをフル稼働させ、日本映画史上最大級の街をゼロから建設するという、正気の沙汰とは思えないプロジェクトだった。
この無謀な夢を具現化するために招聘されたのが、クエンティン・タランティーノの『キル・ビル Vol.1』や岩井俊二の『スワロウテイル』で知られる世界的美術監督・種田陽平。
彼らが目指したのは、1930年代のハリウッド映画や、かつての日活無国籍アクション映画が持っていた「映画の中だけに存在するリアリティ」の再構築だ。
石畳の路地、レトロなホテル、怪しげなバー、そして港に停泊する船。完成した守加護の街並みは、そのすべてが、どこか懐かしく、しかしどこの国でもない異様な色彩を帯びている。
看板のフォントデザインから、壁のペンキの剥がれ具合に至るまで、すべてが計算され尽くした、完璧な偽物。それは『カサブランカ』のセットのようであり、ディズニーランドのようでもあり、あるいは三谷幸喜の脳内にある理想郷をそのまま3次元にプリントアウトしたかのようだ。
なぜ、そこまでしてセットにこだわったのか。それは、この映画が虚構(=嘘)についての物語だからだ。主人公たちは、「映画の撮影だ」という嘘をついて、売れない役者を本物のギャング抗争に巻き込む。この「嘘」を成立させるためには、背景となる世界そのものが「嘘のような美しさ」を持っていなければならない。
完全制御されたセットの中では、天気さえも自由自在だ。雨も、風も、そしてタイトルにもなっているマジックアワー(夕暮れ時の魔法のような光)さえも、照明部と美術部の手によって完璧にコントロールされる。
観客は、画面の隅々から漂う「作り物めいた美しさ」に酔いしれる。だが、この映画が恐ろしいのは、物語が進むにつれて、三谷自身がその完璧な虚構の膜を、自らの手で破ろうとするサディスティックな構造を持っている点だ。
カメラがパンすると、ふとセットの切れ目が見えるような(実際には見えないが)、メタフィクショナルな演出が顔を覗かせる。コンクリートに見える壁がベニヤ板であることを、観客は無意識のうちに感じ取る。
しかし、その作り物感こそが、この映画の最大の武器。書き割りの街で繰り広げられるからこそ、そこで汗をかき、唾を飛ばして演じる役者たちの生身の人間臭さが、逆説的に際立ってくる。
守加護とは、映画という「嘘」の力で、現実の退屈さをねじ伏せるために建造された、巨大な前線基地なのである。
メソッド演技が生んだ「デラ富樫」という怪物
『ザ・マジックアワー』という映画の魂は、佐藤浩市が演じた村田大樹というキャラクターの瞳の奥に宿っている。村田は、エキストラやスタンドインばかりを続けてきた、売れない三流俳優。
そんな彼に、ついに主演映画のオファーが舞い込む(と騙される)。役柄は、伝説の殺し屋・デラ富樫。 彼は、このチャンスに人生のすべてを賭ける。誰よりも台本を読み込み、役作りを徹底し、撮影現場(実際には本物のギャングの事務所)へと乗り込んでいく。
ここで描かれるのは、メソッド演技の究極のパロディであり、同時に俳優という生き物の悲しき業である。村田は真剣だ。あまりにも真剣すぎるがゆえに、目の前にいる本物のヤクザの天塩幸之助(西田敏行)を、迫真の演技をする共演者だと思い込んでしまう。
本物の殺し屋相手に、上から目線で演技指導を始める村田。この、アンジャッシュのコントのようなすれ違い─が、佐藤浩市という名優の重厚な演技力によって、サスペンスと爆笑を生み出す。
特に、あのナイフ舐めのシーン!村田は、殺し屋としての狂気を表現しようと、テーブルの上のナイフを手に取り、舌でねっとりと舐め回す。村田の脳内では、それはデ・ニーロやパチーノに匹敵する、ハードボイルドな演技だ。
しかし、本物のヤクザたちの目には、常軌を逸したサイコパスにしか映らない。三谷幸喜はここで、演劇論を逆手に取った高度な遊びをしている。三流役者の過剰な演技が、現実の裏社会においては、本物以上のリアリティを持ってしまうという皮肉。
コンクリート詰めにされて海に沈められそうになっても、「おい、カメラアングルはこれでいいのか?」と心配する役者魂。まさに狂気と紙一重の純粋さ。
佐藤浩市はこの一作で、自身のキャリアにつきまとっていたシリアスな二枚目という殻を完全に打ち破り、コメディアンとしての才能を開花させた。それは、劇中の村田大樹がデラ富樫という役を通して覚醒したのと、美しい相似形を成している。
「虚構(嘘)」が「現実」を撃ち抜くとき
『ザ・マジックアワー』を観終えたとき、真っ先に脳裏をよぎったのは、感動よりも「際どいな」という直感だった。 何がそれほどまでに際どいのか。それはこの作品が、映画への愛を謳い上げながら、同時にその虚構性を自らの手で暴き、解体してしまうという、極めて危うい均衡のうえに成り立っているからだ。
三谷幸喜は、かつての古典映画への憧憬をこの“オープンセット的虚構空間”に再現し、観客を招き入れる。彼にとって守加護とは、映画そのもののメタファーであり、現実の不条理から逃れるための避難所でもあったはずだ。
だが、三谷はこの理想郷を完全な異世界としては描かない。あえて守加護の外側──現実的なロケーション撮影された風景──を挿入したり、セットの端が見え隠れするような演出を施したりすることで、虚構の膜をビリビリと破いてみせる。これは三谷幸喜による、ある種の自虐的な実験だ。
自らの理想郷を建てながら、同時に「これは作り物である」と観客に告げる。映画を信じたい作家が、映画を純粋には信じきれない現代のリアリズムに直面し、引き裂かれている。その葛藤が、このコメディの底流には常に流れている。
その「際どさ」が頂点に達するのが、佐藤浩市演じる村田大樹のクライマックスだ。彼は映画の撮影だと信じて、本物のギャングたちの前で演技を続ける。しかし終盤、彼はついに悟る。「これは映画ではない、現実だ」と。
普通なら、そこで逃げ出すだろう。だが、村田は逃げない。彼は現実を前にして、あえて「虚構の住人」として踏みとどまることを選ぶのだ。彼が指で銃の形をつくり、敵に向けて引き金を引く。
すると、本当に弾丸が発射され、敵が倒れる(もちろん仕掛けがあるのだが)。これは、演技(虚構)が現実を凌駕した瞬間であり、映画という嘘が現実の暴力を無効化した、奇跡のメタファーである。
とはいえ、この奇跡の後に残るのは、熱狂だけではない。奇妙な違和感、あるいは寂寥感だ。なぜなら、我々観客はすでに、守加護という街がベニヤ板で作られたセットであり、その背後には逃れられない「現実」が広がっていることを知らされているから。
タイトルにある「マジックアワー」とは、日没後のわずかな時間、世界が最も美しく見える瞬間のことだ。三谷幸喜はこの言葉を、「映画という虚構が成立する、ごく短い猶予期間」の比喩として用いたのではないか。
映画とは、現実が完全に暗闇へ沈む前の、わずかな“幻の光”である。だが彼は、その光をラストで自らの手で消灯してみせる。祭りは終わり、セットは解体され、役者は日常へと帰っていく。
三谷が長年築いてきた「密室的コメディ空間」──『ラヂオの時間』のスタジオ、『みんなのいえ』の新居、『THE 有頂天ホテル』のロビー──そのすべてが、本作において一度、現実に引き裂かれ、否定されたのだ。
それでもなお、三谷幸喜は進む。『ラヂオの時間』では部屋を、『THE 有頂天ホテル』では建物を、そして『ザ・マジックアワー』ではついに「街」を作った。このスケールの拡張は、彼の作家としての欲望が「物語を作ること」から「国家を作ること」へと進化した証左である。
彼の理想は、単なるアミューズメント・パークではない。井上ひさしが『吉里吉里人』で独立国家を描いたように、三谷もまた、映画という国土の上に、架空の法律と笑いの秩序を築く“アミューズメント・ネーション(娯楽国家)”を建国しようとしているのだ。
『ザ・マジックアワー』は、その建国前夜に位置する作品だ。映画という魔法を誰よりも信じながら、同時にその魔法が解ける瞬間を、誰よりも冷静に見つめてしまう男。
三谷幸喜にとってのマジックアワーとは、映画の素晴らしさを讃える言葉であると同時に、「いつか終わる夢」への哀悼の辞なのかもしれない。
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