しょっぱなからB.B.ことブリジット・バルドーがグラマラスな裸体をさらし(ただし後ろ姿だけです)、「あたしのどこが好き?」とこまっしゃくれた声で旦那のミシェル・ピッコリに問いかける。
「お尻は好き?」
「胸は好き?」
「太ももは好き?」
「顔は好き?」
ピッコリは鼻を伸ばした表情で「ウイ」と答えるだけ。思わず、ゴダールと愛妻アンナ・カリーナのピロー・トークを、そのまま映画内に引き写したのか?と勘ぐってしまう。
しかし『軽蔑』の撮影当時、ゴダールとアンナ・カリーナとの仲は冷え始めていた。ジュテームを何度も繰り返したであろう恋のささやきも、いつしか愛の不毛に覆われ、二人のあいだには何とも埋め難い精神的空白地帯が形成されたんである。
ブリジット・バルドーもまた、金銭的に困窮している脚本家の夫に対して、何の前触れもなく突然嫌悪感を露わにし、軽蔑の眼差しを向けるのみ。
イタリアの小説家アルベルト・モラヴィアの同名小説を手がかりにして、ゴダール自身の冷えゆく愛の問題を、映画という形式で表出したのが、この『軽蔑』なのだ。
だがこの映画、単に夫婦の愛情の破綻を描いた作品に非ず。これは映画そのものを語った映画だ。まず、長編叙事詩『オデュッセイア』の製作をめぐって、家庭ドラマとして構築しようとする監督フリッツ・ラングと、あくまでハリウッド的スペクタキュラーを主張するプロデューサーの対立が提示される。
その最前線に放り出された脚本家は、自分の立ち位置すら見極めきれず、作家主義にも商業主義にも振り切れず、美しき妻が自分から離れて行くのにオロオロするだけ。
混乱は、映画の撮影現場で英語、フランス語、イタリア語が飛び交うことからも明示される。僕はこの作品を、ニューヨークの小さな映画館で観たのが初見だったんだが、アメリカでイタリア語が飛び交うフランス映画を日本人が観る、というシチュエーションにアタマがクラクラしたものだ。
ゴダールの映画において、異言語は決して融和を示すシンボルには成り得ない。言葉を発した瞬間から、齟齬と摩擦が生じる。『軽蔑』に描かれる混乱は、映画そのものの混乱であり、葛藤なのだ。
自らに巣食う内実を真っ正直に告白したという意味では、この『軽蔑』はゴダール的な『8 1/2』(1963年)なのかもしれない。
映画作家的苦悩と夫婦生活の危機をワンパッケージにした本作は、しかし驚くほどカラフルで、驚くほど冷めきっている。
- 原題/Le Mepris
- 製作年/1963
- 製作国/フランス、イタリア、アメリカ
- 上映時間/ 102分
- 監督/ジャン=リュック・ゴダール
- 原作/アルベルト・モラヴィア
- 脚本/ジャン=リュック・ゴダール
- 撮影/ラウール・クタール
- 音楽/ジョルジュ・ドルリュー
- ミシェル・ピッコリ
- ブリジット・バルドー
- ジャック・パランス
- フリッツ・ラング
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