『8人の女たち』における、天真爛漫かつ豊乳爛漫なリュディヴィーヌ・サニエ嬢の魅力にすっかり参ってしまった僕にとって、『スイミング・プール』を鑑賞することはもはや国家的行事なのである。なんてったって、B92W60H96のGカップだ。
飛び出さんばかりの巨乳には不釣り合いな、あどけないファニーフェイス。まさに、フランス映画界の新たなファム・ファタール。ほぼ全編ハダカかビキニで押し通すリュディヴィーヌ・サニエ嬢の心意気に、心から申し上げたい。「ご馳走様」と。
ってな訳で『スイミング・プール』ですが、こんなにデヴィッド・リンチ的白昼夢ムービーだとは思いませんでした。若さと老い、現実と幻想、モラルと欲望。二項対立のファクターが幾層にも絡みあう、迷宮ムービー。
人それぞれに解釈もまた様々だろうが、何の根拠もない僕の独善的解釈によれば、この映画は女流作家サラ・モートンが綴る物語に自らシンクロナイズしてしまうという、ラビリンス構造の作品だと思う。
以下、俺的解釈です。
- 出版社社長のジョンに勧められ、南仏プロヴァンスにある別荘にサラ・モートンが向かう。寝室で彼女はクロス(十字架)を外すが、これが映像的に「モラリストの女性がインモラルな行動を起こす」という暗示となる。
- ジョンの娘と名乗るジュリーと出会い、サラはその奔放なキャラクターに強く惹かれるが、実はジュリーという存在自体は全くの虚構である。実際は、サラが別荘内でジョンの元妻が書き下ろしたハーレークイン風の原稿をみつけ、それにインスピレーションを得た彼女が、実存するジョンの娘の名前をちなんだキャラクターを造形したに過ぎない。
- この原稿をヒントに、サラが新作を書き始める。現実の虚構の境界線が曖昧となり、次第に自身も物語に引きずり込まれていく。
- 若さに満ち溢れ自由奔放に振る舞うジュリーに、老境にさしかかったモラリストであるサラ・モートンも内面的にフィードバックしていく。
- プールの傍で寝そべっていると男がマスターベーションを始めたり、イルカのようにプールで泳ぐショットなど、サラとジュリーが入れ替わっただけでほぼ同一のショットが多数存在するのは、それぞれが現実と虚構であることを示している。揺れる水面は、常に現実の自分と憧れとしての虚像を映しだしているのだ。
- ジュリーの腹部にある大きな傷(彼女曰く『交通事故』らしいが)は、明らかに人工中絶手術の跡を想起させる。それは現実界におけるサラの過去にあったことであり、彼女の極端な人間嫌いや、今まで結婚したことがない(少なくとも映画ではそれに触れてはいない)ことの遠因となっている。
- よって、家に招いたウェイターを撲殺したのはサラである。ひょっとしたら、サラがプールで泳いでいたウェイターに石を投げ付けて殺しちゃったのかもしれないけど。
性を閉じ込めた女性が突如セクシャリティーに目覚め、現実と虚構の間で揺れ動く。
『ファイト・クラブ』(1999年)におけるエドワード・ノートンの理想像がブラピだったように、ジュリーはサラにとってのオンナとしての理想像であり、己の性的欲望を満たすための触媒となる。現実と虚構を描くために、サニエちゃんとシャーロット・ランプリングのヌードが必要だった訳だが… 。
しかし、還暦近いランプリング女史のオールヌードが拝めるとは思いませんでした。確かに、オントシ59歳とは思えない身体ではあったけど、こんな大それた真似ができるのは他に“熟女ヌードの本家本元”五月みどりぐらいでしょうか。でも、もう脱がなくていいです。
P.S.
『焼け石に水』、『8人の女たち』、『スイミング・プール』とサニエちゃんを起用してきたもんだから、てっきりオゾンとサニエって付き合っているんだろうなーと短絡的に考えていたら、実はオゾンってゲイなんだってね。いやー知らなかったです。
でも、これで僕にもチャンスが巡ってきたってもんだ。サニエ、俺はお前を誰にも渡さないぞ!!
- 原題/Swimming Pool
- 製作年/2004年
- 製作国/フランス、イギリス
- 上映時間/102分
- 監督/フランソワ・オゾン
- 製作/オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ、ティモシー・バリル、クリスティン・ドゥ・ジェッケル
- 脚本/フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルナイム
- 撮影/ヨリック・ル・ソー
- 編集/モニカ・コールマン
- 音楽/フィリップ・ロンビ
- シャーロット・ランプリング
- リュディヴィーヌ・サニエ
- チャールズ・ダンス
- マルク・ファイヨール
- ジャン=マリー・ラムール
- ミレイユ・モス
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