アヴァンな感覚が全編を貫く、最高にヒップな白昼夢ムービー
『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)は、日本映画の歴史でひとつの“事件”だった。
何せ、「訳の分からない映画をつくる」という、物凄い理由で日活を解雇された鈴木清順が、長い雌伏の時を経て発表した作品がコレである。内田百聞の短編『サラサーテの盤』を下敷きにしたというストーリーは、奇妙奇天烈かつ摩訶不思議。
幽玄の美学を思わせる独特の様式美をたたえながらも、ゴダールをも楽々と凌駕するジャンプ・カットを臆面もなく挿入するなど、文体はあくまでコンテンポラリー。
かくして出来上がったのは、今までの作品に輪をかけて訳の分からない幻想譚であった。ショットとショットと繋がりは無茶苦茶、意味不明のシーンの唐突なインサート。まさに「多少の辻褄よりは目の快楽(by 川勝正幸)」。老いてなおアナーキー、カッコよすぎる!
この企画が立ち上がった経緯も、ブッ飛んでいる。
「この映画の企画が立ち上がった経緯というのは。」
「あれはね、代田橋の友達の家に行こうとブラブラ歩いてたら、たまたま向こうから車がやって来て、そこの知り合いのプロデューサー の荒戸(源次郎)さんが乗っていてね。鈴木さん映画を作りませんかって話になってね。」
「いきなりですか」
「藪から棒に言われて、近所の喫茶店に入ってね、五千万円あるから、その予算内で出来る題材ならば全てお任せします、と。それが始まり。(中略)それで出したのが『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』のふたつの企画。まずはお金のかからない方を先にやった訳だね。(『清/順/映/画』より抜粋)
にっかつロマンポルノ最盛期の一端を担った田中陽造による脚本は、アッパラパーな世界観を淫靡かつ艶やかな世界観でコーディング。生と死がないまぜになったかのような、絵も言われぬ怪奇譚に仕立て上げた。そう、理屈なんてどーだっていいのだ!!!
「(中略)』この映画はどこから死んでどこから生きているか分からない。」
「うん、分からないよね。幽明界を異にしない、ぼんやりしてますかね。」
「誰が、どこから、生きているのか、死んでいるのか。」
「怪奇映画ですからね、怪奇映画ってのは理くつがないんだよ。理くつを究明しちゃったら成立しないね。」
「普通の怪奇映画や怪談映画は、幽霊が化けて出るのにもロジックがると思うんです。」
「化け猫映画なんてそうだよね。」
「怨みを抱いて出てくるとかありますが、この映画では怨みでもないですね。」
「お化けに因果応報は必要ない、が持論でね。」(『清/順/映/画』より抜粋)
現代の怪奇映画を創り上げるにあたって、日本映画界のフィクサーとして日々暗躍を続けている荒戸源次郎が仕掛けたのは、東京タワーの真下に銀色のドーム型テント「シネマプラセット」を建てて上映してしまうという、これまた前代未聞な試み。コンテンツも興行スタイルも型破りの作品なのだ。
サラサーテ自身の謎の言葉が吹き込まれているというレコード、大楠道代のしなやかな身体に突如あらわれる斑点、鮮やかな赤色が画面を支配してしまうカニ、ちぎられたコンニャク、水蜜桃。おびただしい数のアイコンがスクリーンから溢れ出し、僕らの脳内に注ぎ込まれていく。
それはおそらく、デヴィッド・リンチが描く「赤い部屋や、奇妙なダンスを踊る小人」と、基本的には同質のポップ・アイコンだ。『マルコヴィッチの穴』(1999年)よろしく、我々は清順の前頭葉にダイレクト・プラグインする権利を得たのだ。
『ツィゴイネルワイゼン』は別に形而上学的でもなければ、小難しい映画でもない。色即是空とでも言うべき空無感、日本的な意匠をまといながらもアヴァンな感覚が全編を貫く、最高にヒップな白昼夢ムービーなんである。
イカスぜ、清順!俺もついてくぜ。
- 製作年/1980年
- 製作国/日本
- 上映時間/145分
- 監督/鈴木清順
- 製作/荒戸源次郎
- 企画/伊東謙二
- 脚本/田中陽造
- 撮影/永塚一栄
- 音楽/河内紀
- 美術/木村威夫、多田佳人
- 編集/神谷信武
- 録音/岩田広一
- 原田芳雄
- 大谷直子
- 大楠道代
- 藤田敏八
- 麿赤児
- 樹木希林
- 佐々木すみ江
- 真喜志きさ子
- 木村有希
- 玉寄長政
- 山谷初男
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