『太陽がいっぱい』(1960年/ルネ・クレマン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『太陽がいっぱい』(原題:Plein Soleil/1960年)は、フランスの名匠ルネ・クレマンが、パトリシア・ハイスミスの犯罪小説『太陽がいっぱい』を映画化したサスペンス・ドラマ。イタリアのナポリを舞台に、貧しい青年トム・リプリー(アラン・ドロン)が、富豪の息子である友人フィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)をアメリカへ連れ戻す依頼を受け、彼の奔放なバカンスに同行。フィリップの傲慢な振る舞いに耐えながらも、彼の財産と美しい恋人マルジュ(マリー・ラフォレ)への羨望を募らせたトムが、ヨット上で殺害を企てる。後にアンソニー・ミンゲラ監督によって『リプリー』(1999年)として再映画化された。
- 第34回キネマ旬報(外国映画):第4位
- 1960年度カイエ・デュ・シネマ:第4位
ナルシスを模倣する男
ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)を観て、とりわけ女性たちがアラン・ドロンの圧倒的な美貌にノックアウトされたらしい。確かに、主人公トム・リプリーを演じるドロンは、ギリシャ彫刻のような完璧な肉体と端正な顔立ちを持っている。
ただ僕の目には、彼はどこか不自然で、演じすぎているように見える。その笑顔には、常に強迫観念のような自己意識の暗い影が差しており、それは生来のナルシストというよりも、ナルシスを必死に模倣しようとしている凡庸な男に映るのだ。
実は企画段階で、ドロンは金持ちの放蕩息子フィリップ(モーリス・ロネ)の役をオファーされていた。だが、野心家ドロンは「俺の生い立ちからして、底辺から這い上がろうとするリプリー役こそが相応しい!」と監督に直談判し、見事にこの役を勝ち取ったという。
つまりこの映画のスクリーンに焼き付けられたドロンの美とは、神から与えられた無邪気な神性ではなく、貧しい青年が必死に美しさを演じようとする、血の滲むような努力と偽装そのものなのだ。
彼は富と教養を持つフィリップの持ち物を身につけ、鏡の前で彼に成り切ろうと薄気味悪い一人芝居を打つ。リプリーはギリシア神話のナルキッソスではなく、水面に映る美しいナルキッソスに憧れ、それに嫉妬し、その首を絞めてでも成り代わろうとする、美を渇望する凡庸な青年なのだ。
この恐るべき転倒こそが、アラン・ドロンという俳優が成し遂げた真髄であり、観客は彼が綱渡りのように見せるギリギリの偽装工作の危うさに、どうしようもなく惹きつけられてしまうのである。
地中海の光が暴くホモセクシュアルな影
映画界のレジェンド・淀川長治は、かつて「リプリーがフィリップに対して抱いているのは、強烈なホモセクシュアル的感情である」と鋭く喝破した。
だが、この映画に宿るドス黒いエロスは、単なる登場人物間の性的含意だけに留まらない。クレマンのカメラは、フィリップを見つめるリプリーの嫉妬に狂った視線を介して、まるでドロンの汗ばんだ肉体を舌で愛撫するかのように執拗に、そしてネットリと追い回すのである。
つまり、クレマンの監督としての眼差しは、フィリップを愛し憎むリプリーのそれと完全に同化しており、映画というメディアそのものが、監督のドロンに対する欲望の代行装置として機能しているのだ。
スクリーンに映し出されているのは、物語上の冷酷な殺人劇であると同時に、監督自身が被写体に向けて放った倒錯的な恋情のトレースに他ならない。
ギラギラと照りつける地中海の狂ったような太陽、目を射るような真白なヨット、そして底知れぬ深さを持つコバルトブルーの海。クレマンは光の強度を極限まで高めることで、かえって人間の欲望が持つドス黒い陰影を際立たせた。光が強ければ強いほど、影はより濃く、よりグロテスクに伸びていく。
リプリーが殺人を犯してまで手に入れた世界は、まるで終わらない祝祭のように眩い。しかし、そのきらびやかな世界の中心には、誰も触れることのできない絶対零度の孤独がポッカリと口を開けている。
ニーノ・ロータによる主題歌の旋律もまた、表面上は優雅な太陽の賛歌でありながら、その奥底には抑圧された罪悪感と自己嫌悪が脈打つ悲嘆のコードが隠されている。
クレマンにとって太陽は希望の象徴などではなく、すべてを暴き立てる暴力的な装置。容赦ない光に晒された瞬間、リプリーが作り上げた偽物の美は、あっけなく滅び去っていく運命にあるのだ。
リプリーの変奏
「美への憧憬とアイデンティティの収奪」というテーマの特異性をさらに浮き彫りにするのが、アンソニー・ミンゲラ監督によるハリウッド・リメイク版『リプリー』(1999年)だ。ミンゲラはキャスティングの妙によって、この物語の構造をより残酷なまでに明確化した。
マット・デイモンの平凡な容貌は、リプリーが抱えるどうしようもない凡庸さをリアルに体現している。その対極として、ジュード・ロウが演じるディッキー(フィリップに相当)は、誰もがひれ伏す神話的な美とカリスマの象徴として配置された。
ミンゲラ版のリプリーが狂おしいほどに憧れているのは、ディッキーの美貌そのものというより、彼が享受している「何不自由ない他者の人生」そのものだ。
彼は究極の空っぽ人間であり、他者を殺してその皮を被ることでしか、自己を証明できない。クレマン版のドロンが自らの美を武器に他者を模倣しようとした男だったとすれば、ミンゲラ版のデイモンは、自らのアイデンティティを完全に失った「空虚な模倣機能」そのものとして描かれている。
アプローチは違えど、どちらも「自己と他者の境界線を力業で越えようとする」という、人間の根源的で倒錯的な欲望を描いた壮絶なドラマであることに変わりはない。
『太陽がいっぱい』は、美という呪いに縛り付けられた哀れな青年の破滅の記録なのだ。リプリーはフィリップを殺すことで彼の富と美を奪い、美しい者として新しく生まれ変わろうと企んだ。しかし偽りの変身は、ロープに絡まった死体によって永遠に未完に終わる。
クレマンはドロンの完璧な外面を鋭いメスとして使い、その内側に潜む不安と欲望の裂け目を容赦なく覗き込んだ。そして地中海の太陽は、そのすべての嘘を平等に照らし出す。美も、欲も、罪も、強烈な光の下では隠し通すことなど不可能なのだ。
この映画は、美しさの裏側にへばりついた残酷な真実を暴き出した、映画史上もっとも眩しくて恐ろしい“欲望の告白”なのである。
参考文献・出典
- 監督/ルネ・クレマン
- 脚本/ルネ・クレマン、ポール・ジェコブ
- 製作/レイモンド・アキム、ロベール・アキム
- 原作/パトリシア・ハイスミス
- 撮影/アンリ・ドカエ
- 音楽/ニーノ・ロータ
- 編集/フランソワーズ・ジャヴェ
- 美術/ポール・ベルトラン
- 衣装/ベラ・クレメント
- 録音/ジャン=クロード・マルシェッティ
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