2026/3/19

『Z』(1969)徹底解説|なぜ独裁政権は、たった一つのアルファベットを恐れたのか?

『Z』(1969年/コスタ=ガヴラス)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
7 GOOD
概要

『Z』(原題:Z/1969年)は、コスタ=ガヴラス監督が軍事政権下の弾圧を鋭く告発した、映画史を語る上で絶対に外せないポリティカル・スリラーの金字塔。白昼堂々起きた平和主義議員の暗殺事件をめぐり、国家権力が組織的な隠蔽を図る中で、一人の予審判事が巨大な陰謀の核心へと迫る様を、ラウール・クタールによるドキュメンタリータッチの映像とミキス・テオドラキスの昂揚感あふれる音楽、そしてイヴ・モンタンら名優たちの魂を懸けた熱演と共に描き出す。

目次

独裁政権に叩きつけた怒りの宣戦布告

『Z』(1969年)と聞くと、我らが水木一郎アニキの「ゼーーーット!」という熱い絶叫を思い浮かべる読者諸兄もおられるかもしれないが、全く違う。ましてや、ジャッキー・チェンのアクション映画『サイクロンZ』(1988年)とは1ミリも関係がないので注意が必要だ。

サイクロンZ
サモ・ハン・キンポー

本作は、ギリシャ出身の熱血映画監督コスタ=ガヴラスが放った、ポリティカル・サスペンスの歴史的傑作。第42回アカデミー賞外国語映画賞、第22回カンヌ国際映画祭審査員賞など、世界の主要な映画賞を総なめにした。

通常、社会派の映画が始まるときには「この映画はフィクションであり、実際の人物、団体、事件などとは一切関係ありません」という、逃げ腰の法的なエクスキューズがテロップで流れるのがお約束。

だが、本作の冒頭に叩きつけられるテロップは違う。「現実の事件や人物との類似は意図的なものである。コスタ=ガヴラス、ホルヘ・センプルン」と、なんと監督と脚本家の署名入りで、国家に対する決意表明(という名の宣戦布告)が堂々と宣言されるのだ。

こんなロックな始まり方をする映画を、僕は他に見たことがない。このたった数秒の字幕だけで、画面の隅々からコスタ=ガヴラスの並々ならぬ怒りと熱気がムンムンと伝わってくるではないか。

そもそもこの作品は、1963年5月にギリシャで野党議員グリゴリス・ランブラキスが白昼堂々と暗殺された実際の事件を題材にした、ヴァシリ・ヴァシリコスの小説を映画化したもの。

ランブラキスは米軍のミサイル配備に強硬に反対した平和主義者だったが、左派の徹底的な弾圧を押し進めた右翼軍部の策謀によって命を奪われた。以降、ギリシャは軍事クーデターを経て、軍事独裁政権が恐怖政治で統治する暗黒時代へと突入する(この独裁体制は1974年まで続いた)。

本作が公開された1969年当時、コスタ=ガヴラスの祖国ギリシャはまさにその軍事独裁政権のド真ん中にあった。つまり本作は、亡命先のフランスから祖国のファシズム体制に向けて送り届けられた、怒りの告発状なのである。

オリバー・ストーン監督の『JFK』(1991年)のごとく、一級のサスペンス・エンターテインメント作品としての骨格を保ちながらも、剥き出しの怒りが画面全体を支配している。

例えは悪いが、熱弁をふるうコスタ=ガヴラスのツバがガンガン観客の顔に降りかかってくるような、激しい政治的衝動に突き動かされた超・熱血映画なのだ。

リアリズムを破壊するカリスマと、ステレオタイプな悪党たち

この映画が面白いのは、社会派の実録モノでありながら、演出そのものはドキュメンタリータッチの地味なリアリズムを追求している訳ではないということだ。

中盤、イヴ・モンタン演じるカリスマ的な野党議員「Z」が、敵対する右翼の暴徒やデモ隊のド真ん中へ向かってたった一人で歩いて行く名シーンがある。

その威風堂々とした彼の佇まいに圧倒され、まるで海を真っ二つに分けたモーゼのように、殺気立った群衆たちが思わずスススーッと道を空けてしまう。現実にはあり得ないほどのヒロイズムだが、モンタンの放つ圧倒的なスター性が、この神話的な演出を見事に成立させている。

対照的に、国家警察の要人や軍部の幹部たちは、思慮が浅くて品が悪い、絵に描いたような悪人。彼らのゲスで間抜けな振る舞いは、Z議員や、真実を追う予審判事(ジャン=ルイ・トランティニャン)、そして彼らを支援する若きジャーナリスト(ジャック・ペラン)たちの、知的でスマートな物腰とは見事なまでの好対照を成している。

国家警察による言論・思想の弾圧というヘビーなテーマを、鋭利なナイフで容赦なくメスを入れつつ、善悪の構図がハッキリした分かりやすい娯楽作品に仕立て上げるコスタ=ガヴラスの手腕は、天才的。

映画を政治的プロパガンダの武器として使うならば、小難しい理屈をこねるより、悪党を徹底的に愚かに描いて観客に嘲笑させるのが一番効果的であることを、彼は熟知していたのだ。

圧倒的な熱量がねじ伏せる不完全さ

僕はこの映画を観ていて、ある疑問が浮かんだ。右翼のチンピラたちは、Z議員を棍棒で頭を殴ったり、三輪自動車で轢き殺そうとしたりするけれど、なぜプロの暗殺者のように拳銃使わないのか?一番確実なやり方じゃないか、と。

だがよくよく考えてみれば、これこそが国家権力の最も卑劣な隠蔽工作だった。もし公衆の面前で拳銃で射殺すれば、誰の目にも明らかな政治的暗殺となり、大規模な暴動や国際的な非難を引き起こしてしまう。

だから警察は、右翼のゴロツキを雇い、デモの混乱に乗じてオート三輪で轢き殺すという手荒なマネをさせたのだろう。すべてを不幸な交通事故として処理し、揉み消すために。

拳銃を使わなかったという事実そのものが、独裁政権が抱える姑息さと、真実から目を背けようとする国家の小賢しいシステムを如実に暴露している。

もちろん、本作が完璧な無傷の傑作かと言えば、そうではない。コスタ=ガヴラスのZ議員という実在のモデルに対するリスペクトが強すぎたせいか、合間に挟まれる回想シーンはただ情緒的なだけで物語の推進力を削ぎ、時に全く意味不明という事態も引き起こしている。演出のムラの強さは否めない。

しかし、そんな細かな脚本のほころびも含めて、すべてを力づくで強引に押し通してしまうコスタ=ガヴラスの圧倒的な「馬力」と「怒りのエネルギー」には、ただただ賞賛の声を上げるしかない。

エンディングで流れるミキス・テオドラキス(当時、ギリシャ国内で実際に投獄されていた!)の心臓の鼓動のような音楽とともに、軍事政権が禁止したものリスト(長髪、ビートルズ、ストライキ、ソフォクレス、トルストイ、そして自由)が文字で連打されるラストシーンのカタルシスは、映画史に残る鳥肌モノだ。

『Z』はギリシャ語の「Zei(彼は生きている)」を意味する。この熱気と怒りに満ちた傑作は、公開から半世紀以上が過ぎた今もなお、我々の目の前で生々しく生き続けているのだ。

コスタ=ガヴラス 監督作品レビュー
  • Z(1969年/アルジェリア、フランス)
  • ミッシング(1982年/アメリカ)