『盲獣』(1969年)
映画考察・解説・レビュー
『盲獣』(1969年)は、江戸川乱歩の同名小説を、増村保造監督が濃厚なエロティシズムと美学的倒錯を纏わせて映画化した愛欲劇である。盲人の青年彫刻家がモデルの女を誘拐し、女体の“究極の形”を求めて密室に閉じこもる中、世界は視覚を失った触覚の領域へと反転していく。肉体をなぞる指先だけが真実を語るかのように、恐怖と陶酔、支配と依存が絡み合い、二人の関係は次第に常軌を逸した共犯関係へ転じていく。増村らしい緊迫した密室演出と乱歩の倒錯世界が結晶した一作。
増村保造が挑んだ“見ること”の反逆
『盲獣』(1969年)は、江戸川乱歩の同名小説を増村保造が映画化した異形の愛欲劇である。盲人の青年がモデルの女を誘拐し、女体の「究極の形」を追い求めるこの作品は、エログロの域を超え、感覚の極限を可視化する試みであった。
「ひどい變態ものである。私の作がエログロといわれ、探偵小説を毒するものと非難されたのは、こういう作があるからだと思う」
──この自注は、乱歩文学が持つ官能と変態の二重性を端的に表している。
増村がそこに惹かれたのは、単なる異常性愛の描写ではなく、「感覚の純粋性」という危険なテーマだった。彼にとって“見る”とはすでに俗化された行為であり、真に美しいものは“触れる”ことでしか到達できない。『盲獣』はその認識の極点に位置している。
江戸川乱歩の小説は、視覚よりも触覚・嗅覚といった“生理的感覚”を通じて快楽の本質を描き出す。『盲獣』における盲人の青年は、視覚を奪われたことで世界の形を指先で確かめる。
彼にとって肉体は鑑賞の対象ではなく、触れることで存在を確かめる彫刻的実体なのだ。増村保造は、この触覚の世界を映画という視覚メディアでどう表現するかという逆説的課題に挑んだ。
1960年代後半、日活の商業枠組みが崩れかけていた時代、増村は“知的エロス”によって日本映画の表現領域を更新しようとしていた。『盲獣』はその頂点に位置する。原作の倒錯をそのまま映像化するのではなく、芸術論としてのエロスを探求すること──それが増村の狙いだった。
アトリエに並ぶ女体の断片、乳房や唇の塑像群は、単なる猥褻の象徴ではなく、触覚的快楽が視覚を凌駕する瞬間の比喩である。
触覚の映画──“見る”ことを拒むカメラ
『盲獣』の映像を支配しているのは暗闇である。増村はライトを極端に絞り、被写体を部分的にしか見せない。観客は常に「見えないものを見る」ことを強いられる。
これは単なるサスペンス演出ではない。光の欠如こそが、盲人の世界のリアリティであり、視覚から解放された“感覚の自由”なのだ。クローズアップで捉えられる肌の起伏、指先が布をなぞる音、息遣いのリズム──増村はこれらを通じて“触覚的映画言語”を創造している。
この映像構造は、フランスの詩人アントナン・アルトーが唱えた「残酷演劇」にも通じる。見ることを拒む映像は、観客の身体感覚を直接刺激する。視覚の支配を脱したとき、映画は“触れる芸術”へと変貌するのだ。増村にとって『盲獣』とは、モラルや倫理の境界を超え、映像そのものが肉体化する瞬間の記録であった。
物語が進むにつれ、被害者であったはずのモデル・アキは、盲人の世界に引きずり込まれていく。恐怖から陶酔へ、嫌悪から快楽へ──その変化は、精神の崩壊ではなく、感覚の覚醒である。
アキはついに「傷つけられること」に歓喜を見出し、「右腕も切り落として!」と叫ぶ。ここで描かれるのは、痛覚と快楽の融合、つまりエロスの終焉である。
サディズムとマゾヒズムは、本来対立するものではない。どちらも“感覚の極限”を目指す衝動の異なる位相にすぎない。増村はその統合を描く。肉体を痛めつける行為は、破壊ではなく創造であり、エロスを超えた純粋な“生の振動”だ。
アキの顔に浮かぶ恍惚は、もはや人間の表情ではない。感覚そのものが人格を凌駕した瞬間──そこに増村映画の本質がある。
乱歩的宇宙の終着点
乱歩の小説世界において、快楽の追求は常に破滅と隣り合わせにある。『屋根裏の散歩者』や『人間椅子』の登場人物たちは、社会から隔絶された空間で異常な快楽を見出し、最終的に自壊する。
『盲獣』の盲人とアキもまた、現実から閉ざされた密室で「美の完成」を追い求め、やがて互いの身体を食い尽くすようにして消滅していく。
増村はその終末を、悲劇ではなく到達点として描く。美とは、生の極限であり、死と不可分なもの。彼にとって映画とは、死を通じてしか美に触れられない芸術だった。
照明に照らされたアトリエの白い塑像群は、彼らの肉体が石へと変質する過程を暗示する。生きながらにして“作品”となる──それこそが『盲獣』という映画の恐るべき帰結である。
この思想は、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』やパゾリーニの『テオレマ』にも通底する。欲望を極限まで高めたとき、人間は自己の肉体を超越し、芸術へと変容する。
『盲獣』は日本映画史の中で、まさにその転換点に立つ作品だ。視覚を拒絶した映画が、いかに“美”を実体化できるか──増村保造はその問いを全身で体現したのである。
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