ジム・キャリーの変顔が炸裂。「嘘」と「本当」が交錯するメディア論
とにもかくにも、生理的にジム・キャリーが受け付けられないのである。ネジが100本ぐらいとれちゃったようなスーパー・ハイテンションぷりも、異様な顔筋のネジれ具合も、時折見せる捨てられた子犬のような眼差しも、すべてが嫌なのである。
だから、彼が出演している映画は『マスク』(1994年)以来観ていない。あ、よく考えたら『バットマン フォーエバー』(1995年)も観たな(リドラー役だったね)。あいかわらずキレまくってて、ひいたけど。
ジム・キャリー嫌いの僕がこの『トゥルーマン・ショー』(1998年)を観ようと思ったのは、脚本がアンドリュー・ニコルで監督がピーター・ウィアーだからだ。
『ガタカ』(1997年)、『シモーヌ』(2002年)といった作品群で、虚構と現実、内側と外側といった境界線をアイロニカルに暴き出してきたアンドリュー・ニコルと、『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985年)、『グリーンカード』(1990年)で、異邦人たちの戸惑いや葛藤を瑞々しく描いてきたピーター・ウィアー。
この最強タッグに“エキセントリック・アクター”ジム・キャリーが加わると、どのような化学反応をおこすのか。興味はこの一点にあった。
本編の舞台となる四方を海に囲まれた小さな町シーヘブンは、かつてのアメリカのユートピアそのものである。第一次世界大戦後、アメリカは空前の好景気に沸いた。
電気洗濯機・冷蔵庫など家庭電化製品が急激に普及し、各家庭で車が購入できるようになったことで、都市の郊外化が進んだ。シーヘブンは、「一人一人に豊な生活を」というスローガンが具現化した20~30年代アメリカの、イメージ転写と受け止めて間違いない。
しかし21世紀を迎え、現実世界でのアメリカはユートピアとは逆の放物線を描いて、ディストピア化しつつある。マイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)で指摘したような、「恐怖が支配する世界」に成り果ててしまったのだ。
だからこそ番組プロデューサー役のエド・ハリスは、たとえ虚構であろうとも、かりそめの安寧秩序を享受できるシーヘブンに留まるよう、トゥルーマンを説得するのである(プロデューサーの名前がChristofなのは、Christ=キリストとかけているんだろうか?)
『トゥルーマン・ショー』が全世界17億人の視聴を誇る人気テレビ番組だという設定なのは、24時間完全生中継という覗き屋的好奇心だからではなく、今やアメリカが喪失してしまったイノセンスがあるからだ。
「嘘」と「本当」が交錯するメディア論としてこの映画を語るのは容易いが(ラストシーンの『ほかに番組ないの?』というセリフは象徴的だ)、その枠だけには収まらないだろう。アンドリュー・ニコルが『ガタカ』で描いたようなモチーフ、すなわち内側から外側へ越境しようとする意思があるのだ。
観終えて、やっぱり僕は生理的にジム・キャリーが受け付けられないことを再確認した。再確認はしたけど、この映画はジム・キャリーだからこそ体現できる映画であることも実感した。
というわけでGood Morning、Good Afternoon、Good Night。
- 原題/The Trueman Show
- 製作年/1998年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/103分
- 監督/ピーター・ウィアー
- 製作/エドワード・S・フェルドマン、スコット・ルーディン、アダム・シュローダー
- 脚本・製作/アンドリュー・ニコル
- 撮影/ピーター・ビジウ
- 音楽/フィリップ・グラス、バークハート・フォン・ダルウィッツ
- 美術/デニス・ガスナー
- ジム・キャリー
- ローラ・リニー
- ノア・エメリッチ
- ナターシャ・マケルホーン
- ブライアン・ディレイト
- エド・ハリス
- ホーランド・テイラー
- ブレア・スレイター
- ピーター・クラウス
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