『オンリー・ゴッド』(2013)
映画考察・解説・レビュー
『オンリー・ゴッド』(原題:Only God Forgives/2013年)は、タイ・バンコクを舞台に、麻薬密輸に関わる兄弟とその母、そして“神”のごとき元警官チャンの対峙を描く。兄ビリーを殺されたジュリアンは、母ジェナの命で復讐に向かうが、やがて暴力の連鎖は道徳を超え、神の裁きへと変わっていく。血と光が交錯する中、赦しの意味が問われる。
悪夢とネオンのLSD体験
もしあなたが『ドライヴ』(2011年)のような、クールでスタイリッシュなクライム・サスペンスを期待してこの映画を観るなら、開始10分で脳がショートして泡を吹くことになるだろう。
監督のニコラス・ウィンディング・レフン自身が、「『ドライヴ』が極上のコカインなら、本作はバッドトリップ確定のLSDだ」と公言しているのは、決して比喩ではない。これは映画というフォーマットを借りた、純度100%の「劇薬」である。
2013年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門での上映時、会場では激しいブーイングと熱狂的なスタンディングオベーションが同時に巻き起こったという。この真っ二つの反応こそ、本作がまともな娯楽作ではなく、観客の神経を直接逆撫でする「危険物」であることの証明ではないか。
舞台はタイ・バンコク。だが、観光ガイドに載っているような生ぬるい都市としては描かれていない。実はレフン監督は先天的な色覚障害を持っており、中間色を認識することができない。彼に見えているのは、極端なコントラストの世界だけだ。
だからこそ、撮影監督のラリー・スミスと共に、彼は自分が認識できる「赤」と「青」の色調を極限まで強調するしかなかった。その結果、画面全体が血のような真紅と、深海のような紺青だけに染め上げられる。
この異常な色彩設計は、レフン自身の「不完全な網膜」が見ている世界そのものであり、我々の三半規管を物理的に狂わせる「生物学的な暴力」。観客はこの色彩の洪水の中で、方向感覚を失い、倫理観さえも溶解させられていく。
そして、主人公ジュリアンを演じる盟友ライアン・ゴズリングの扱い方も常軌を逸している。彼はこの映画で、なんとたったの17行程度しか言葉を発しないのだ。レフンとゴズリングは、『ドライヴ』で確立した「無口でカッコいいドライバー」という英雄像を、本作で徹底的に破壊し、去勢しにかかった。
ここでのゴズリングは、戦わない。勝てない。セックスもできない。ムエタイジムを経営している設定でありながら、いざ戦いになれば一方的にボコボコにされる。その姿はアクションスターではなく、まるで夢の中を彷徨う、去勢された亡霊だ。
兄ビリーを殺された復讐劇というプロットは、あくまでマクガフィン。この映画の本質は、言葉を捨て去り、クリフ・マルチネスの重低音シンセサイザーと映像の暴力的な奔流に身を任せる、通過儀礼なのである。
不条理すぎる神々の戦い
この映画を支配しているのは、間違いなく「神」の存在だ。だが、それはキリスト教的な愛の神ではない。
元警官チャン(ウィタヤー・パーンシーガーム)は法を守る刑事ではなく、バンコクの夜に君臨する「復讐の神」そのもの。彼が背中から巨大な剣を抜き放つ動作は、脊髄から直接暴力を引き出しているかのような禍々しさがある。
悪人を文字通り裁く(物理的に切断する)その姿は、タランティーノ的な痛快な活劇ではない。もっと儀式的で、厳粛な「神事」を見せられている気分になる。彼は「復讐」という行為を、感情ではなく「義務」として淡々と遂行するシステムなのだ。
特筆すべきは、チャンが虐殺の後に必ず行うカラオケのシーン。血まみれの制裁を加えた直後、彼は場末のスナックでマイクを握り、タイの甘いポップスや演歌を情感たっぷりに歌い上げる。
部下の警官たちがそれを直立不動で聴き入る光景の、あのシュールで恐ろしい静寂。ここでの歌は、暴力によって乱れた世界のバランスを元に戻すための、清めの儀式に他ならない。
レフンはこう語っている。「暴力の後に訪れる静寂こそが、最も大きな音だ」と。チャンの暴力には、人間的な感情や道徳は一切介在しない。彼はただ、自然災害のようにそこに在り、無慈悲な鉄槌を下す絶対的な父権の象徴なのだ。
対する悪魔として登場するのが、クリスティン・スコット・トーマス演じる母ジェナ。彼女は息子ジュリアンを支配し、不能にし続ける太母(グレート・マザー)の具現化である。
彼女の役作りのモデルは、なんとあのドナテラ・ヴェルサーチの派手な風貌と、シェイクスピアの『マクベス』のマクベス夫人を足して2で割ったものだという。
彼女が放つ「お前の兄貴の方がイチモツがデカかった」という、映画史上もっとも下品かつ残酷なセリフ!彼女の毒気は、どんなホラー映画よりも恐ろしい。
ジュリアンは母の胎内(赤い部屋)に戻りたいという退行願望と、彼女から自立したいという欲望の間で引き裂かれている。彼が拳を握りしめながらも、一度もそれを振り上げることができないのはなぜか?
それは彼が「母」という絶対的な呪縛の前で、永遠に無力な子供だからだ。この映画は、マフィア映画の皮を被った、壮絶なエディプス・コンプレックスの葬送曲なのである。
バンコクの幽霊とホドロフスキーへの電話
エンドロールにデカデカと出る「アレハンドロ・ホドロフスキーに捧ぐ」の文字。これこそが、本作を難解なパズルから、魂の遍歴へと昇華させる最大の鍵だ。
実は撮影中、バンコクのホテルでレフンの娘が、夜な夜な壁を引っ掻く幽霊に怯えるという怪奇現象が発生した。困り果てたレフンが国際電話で助言を求めた相手こそ、カルトの帝王ホドロフスキーだったのだ。
彼はタロットカードを引き、レフンにこう告げたという。「悪魔に水を捧げよ。過去を祓え」。このオカルト体験こそが、当初の「格闘アクション映画」という構想を、「現世と異界の境界線が消滅したスピリチュアルな旅」へと変貌させた決定打である。
映画全体を貫くモチーフは“手”だ。ジュリアンは鏡の前で自分の手を見つめ続けるが、その手は母を守ることも、敵を倒すこともできない無力なもの。
しかし、ラストシーンで意味は反転する。彼は自らチャンに両腕を差し出し、その剣によって手を切り落とされることを選ぶ。普通のアクション映画ならバッドエンドだが、ここでは違う。これは究極の救済である。
母という呪縛、そして暴力の連鎖から解き放たれるためには、罪を犯すための道具であり、母に触れようとする“手”そのものを失うしかなかったのだ。
切断された腕、鮮血、そして訪れる静寂。ジュリアンは両腕を失うことで、ようやく「何もできない無垢な存在」、つまりは生まれたばかりの赤子へと還っていく。それは、レフン流の歪みに歪んだハッピーエンドではないか
彼は観客に対し、物語の整合性やカタルシスなどという退屈なものを捨てろと迫る。ただ網膜で感じろ、鼓膜で震えろ、と。この映画は、現代の映画が失ってしまった神話的な暴力と、宗教的な恍惚を取り戻すための、極めて純粋で、狂気じみた祈りの書なのだ。
バンコクの夜に溶けるようなネオンサインと、痛いほどの赤色に包まれて、我々は知る。神は許さない(Only God Forgives)。だが、罰を与えることで、逆説的に神は我々を受け入れるのだと。
サッパリ分からない? それでいい、頭で考えるな!全身でトリップしろ!
- 原題/Only God Forgives
- 製作年/2013年
- 製作国/デンマーク、フランス
- 上映時間/90分
- ジャンル/犯罪、サスペンス、スリラー
- 監督/ニコラス・ウィンディング・レフン
- 脚本/ニコラス・ウィンディング・レフン
- 製作/ニコラス・ウィンディング・レフン、レネ・ボーグルム、シドニー・デュマ、ヴァンサン・マラヴァル
- 撮影/ラリー・スミス
- 音楽/クリフ・マルティネス
- 編集/マシュー・ニューマン
- 美術/ベス・マイクル
- ライアン・ゴズリング
- クリスティン・スコット・トーマス
- ヴィタヤ・パンスリンガム
- ラータ・ポーガム
- ゴードン・ブラウン
- トム・バーク
- オンリー・ゴッド(2013年/デンマーク、フランス)

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