『スモーク』(1995年/ウェイン・ワン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『スモーク』(原題:Smoke/1995年)は、現代アメリカ文学の巨匠ポール・オースターとウェイン・ワン監督がタッグを組み、90年代のミニシアター・ブームを牽引したインディペンデント映画。ブルックリンの街角にある小さな煙草屋の店主オーギー(ハーヴェイ・カイテル)は、14年間、毎日同じ時間に店の前の交差点で写真を撮り続けていた。強盗の流れ弾で身重の妻を亡くした作家のポール(ウィリアム・ハート)や、嘘つきの家出少年、昔の恋人など、煙草の煙のように漂う不器用な人々が交差していく。
匂い立つフィルムの切れ端
ほとんど神の啓示の如く、「ポール・オースターを読みなはれ、ポール・オースターを読みなはれ」という内なる声が、ある日突然僕の脳内に鳴り響き始めた。
思えば伏線はいくつもあった。確か村上春樹のエッセイで、ポール・オースターという響きの良い名前を初めてみつけて脳裏に引っかかり、さらに高橋源一郎が書いたオースターへの熱烈な激賞文を発見して、「これはいつの日か、この人の作品をガッツリ読まなにゃいかんなあ」という思いがムクムクと頭をもたげていたのである。
日本におけるオースターの紹介者である柴田元幸氏の名訳による、あの都会的で洗練された文体の魅力。その抑えきれない衝動に従い、会社同僚のA氏とN嬢に土下座する勢いでオースター作品を根こそぎ借り上げ、狂ったように活字を漁り読みしている今日この頃である。
「ニューヨーク三部作」や『ムーン・パレス』に見られる、偶然と必然が交錯する都市の迷宮。アイデンティティの喪失と探求。そんなオースターの文学的エッセンスにどっぷり浸かった僕が、映画『スモーク』(1995年)へと辿り着くのは、もはや必然だった。
ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたオースターの短編小説、『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』を読んだウェイン・ワン監督が、映画化を熱望。オースター本人が脚本を書き下ろした。
果たしてスクリーンで展開されるのは、日常という名のフィルムの切れ端から、言葉にならない人生の機微がむせ返るような匂いとともに滲み出てくる、見事な逸品だった。
画面を支配するのは、90年代アメリカ・インディペンデント映画の魂とも言える名優たち。ブルックリンの小さな煙草屋の店主オーギーを演じるハーヴェイ・カイテル、スランプの作家ポールを演じるウィリアム・ハート、そして物語の鍵を握る男サイラスを演じるフォレスト・ウィテカー。
さらにストッカード・チャニング、若き日のハロルド・ペリノーも出演。役者陣の顔ぶれを見ているだけで、濃厚な香りがぷんぷん漂ってくる。
交差点の4000枚の写真と、煙草の煙に溶ける喜怒哀楽
この物語は、「親子関係の断絶と不器用な回復」、「巨大な都市空間の中にポツンと落ちている孤独」、そして「自己の内部と外部の境界線」といった、極めてポール・オースター的なコードによって静かに進行していく。
映画の中心にあるのは、煙草屋というミニマムな空間。そこには、近所の常連客たちが集い、葉巻をくゆらせながら、他愛のない世間話や哲学的な議論を戦わせている。
中でも観客の魂を強烈に揺さぶるのは、オーギーが14年以上もの間、毎日欠かさず朝の8時に同じ場所(第3ストリートと第7アベニューの交差点の角)で、同じアングルで写真を撮り続けているというエピソードだ。
その数、なんと4000枚以上。一見すると狂気の沙汰とも思えるこの反復行為だが、作家のポールがその膨大なアルバムをパラパラと適当にめくっていると、オーギーは「もっとゆっくり見ろ。お前は何も分かっちゃいない」とたしなめる。
「明かりが違う、季節が違う、曜日が違う。同じ人間もいれば、違う人間もいる」。そして、ゆっくりとページをめくり直したポールの目に、ある日突然、亡き妻の生前の笑顔が飛び込んでくる。その瞬間、ポールは声を出して泣き崩れるのだ。
ミニマムな空間と反復される日常の中にこそ、広大な世界と圧倒的な時間が存在し、無意味に思える人生に確かな意味を付与してくれる。煙草の煙をゆっくりとくゆらすように紡がれていくシンプルなエピソードの数々が、たおやかに、それでいて逃げ場のない絶対的な強度を持って我々観客の胸に迫ってくる。
この映画において特筆すべきは、喜怒哀楽がすべて同じ質量として扱われている点だ。喜びは物語を無理に盛り上げるための劇的なギミックとしては決して消費されず、哀しみもまた、メランコリックな色彩を与える安いツールとしては存在しない。
妻を失った男の喪失も、父親を知らずに育った黒人少年ラシードの孤独も、かつての恋人が抱えるヤク中の娘の問題も、あらゆる感情や不条理を煙草の煙と一緒に肺の奥深くへ吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
ブルーカラーの大人たちのどうしようもなく不器用な日常が、ただ淡々と、しかし圧倒的な優しさを持って綴られていくのである。
「語り」と「嘘」がもたらす奇跡
映画という視覚メディアにおいて、物語ることとは、通常、派手な映像的ギミックやフラッシュバックといった、視覚的な演出効果と紐づくものだ。しかし、この映画において物語るということは、文字通り「言葉を尽くして、相手に語って聞かせること」に他ならない。
その真髄が爆発するのが、映画のラスト10分。オーギーが、クリスマス・ストーリーの題材を探しているポールに向かって、盲目の老婆からカメラを盗んだ(あるいは譲り受けた)という、秘密のエピソードを語るシーンだ。
普通のアメリカ映画なら、ここで感傷的な回想シーンや再現ドラマを安易に挿入してしまうだろう。だが、ウェイン・ワン監督と脚本のオースターは、そんな野暮な真似は絶対にしない。
なんと彼らは、葉巻をくゆらせながら語るオーギーと、彼を見つめる作家ポールの、バスト・ショットの切り替えし(そしてオーギーの顔にゆっくりと寄っていくズーム)のみで、この長大なクライマックスを完全に構築させてしまった。
演者の息遣い、声のトーン、わずかな視線の揺れ、そしてタバコの煙の軌跡。やはて我々の脳内には、ブルックリンの底冷えするクリスマスの情景と、目の見えない老婆の孤独な食卓が、克明に、鮮やかに浮かび上がる。このような極限まで削ぎ落とされた語り口にこそ、『スモーク』という映画の本質がある。
「嘘もそこまでつけば立派なものだ」というポールの言葉の通り、そのカメラ泥棒の話が真実なのか、彼が優しい老婆のために咄嗟に孫のふりをしたホラ話なのかは、誰にも分からない。だが、嘘が誰かを救い、幸せにするのなら、その嘘は真実よりも重く、尊い価値がある。
そして最後に、トム・ウェイツの渋すぎる枯れたダミ声が響き渡る名曲「Innocent When You Dream」に乗せて、さきほど語られた物語がモノクロームの無声映画のような映像として、初めて挿入される。
この反則級に美しく、ずるい演出に、我々はただ涙腺を崩壊させるしかない。ポール・オースターによって咀嚼された普遍的な物語は、今この瞬間も地球のどこかの片隅で起こっているであろう、ミニマルで、最高に愛おしい唯一無二のニューヨーク・ストーリーなのである。
- 監督/ウェイン・ワン
- 脚本/ポール・オースター
- 製作/ピーター・ニューマン、グレッグ・ジョンソン、堀越謙三、黒岩久美
- 製作総指揮/ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、井関惺
- 制作会社/ミラマックス
- 原作/ポール・オースター
- 撮影/アダム・ホレンダー
- 音楽/レイチェル・ポートマン
- 編集/メイジー・ホイ
- 美術/カリナ・イワノフ
- スモーク(1995年/アメリカ)
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