ほとんど神の啓示の如く「ポール・オースターを読みなはれ、ポール・オースターを読みなはれ」という内なる声が聞こえてきたので、会社同僚のA氏とN嬢にオースター作品を借りて漁り読みしている今日この頃である。
確か村上春樹のエッセイか何かで“ポール・オースター”という名前を初めてみつけて、さらに本屋で高橋源一郎のオースター激賞文を発見して、「これはいつの日かこの人の作品を読まなにゃいかんなあ」という思いがムクムクと頭をもたげてきたのだ。
そのオースターが脚本を手がけた『スモーク』(1995年)という作品があると聞けば、これを観ない手はない。果たしてスクリーンで展開されるのは、ドラマティックな人生が描かれた佳品ではなく、人生そのものがフィルムの切れ端から滲み出てくるような逸品。
ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハート、フォレスト・ウィッテカーといった役者陣の顔ぶれだけで、濃厚な香りがぷんぷんである。ご飯3杯ぶんはおかわりできそうだ。
「親子関係の断絶→回復」、「都市の中の孤独」、「自己の内部と外部」。物語はポール・オースター的コードによって進行される。
煙草の煙をくゆらす如く紡がれていくシンプルなエピソードが、たおやかに、しかしながら絶対的な強度を持って僕らに迫ってくる。
ブルックリンの片隅の煙草屋で、10年以上も写真を撮り続けてきたハーヴェイ・カイテルの例を持ち出すまでもなく、ミニマムな空間にこそ世界は存在し、人生に意味を付与してくれるのだ。
“物語ること”とは、常に映像的な演出効果と紐づくものだが、この映画において“物語る”ということとは、文字通り“語って聞かせる”ことである。
ハーヴェイ・カイテルがカメラを老婆から盗んだエピソードなんぞ、普通は回想シーンで見せてしまうところだろうが(最後にトム・ウェイツの渋すぎる歌に乗せて、回想めいたシーンは挿入されるけど)、ほぼハーヴェイとウィリアム・ハートのバスト・ショットの切り替えしのみでシーンを構築させてしまったのが、その典型例といえるだろう。このような語り口にこそ、『スモーク』の本質がある。
この映画において、喜怒哀楽は同じ質量として扱われる。喜びは物語の劇的な効果を生み出すギミックとしては存在せず、哀しみもまたメランコリックな色彩を与えるツールとしては存在しない。あらゆる感情を煙草の煙の如く吸い込んで、ブルーカラーの日常が淡々と綴られるのである。
ポール・オースターによって咀嚼された普遍的な物語は、今も地球の片隅で起こっているであろう、ミニマルで、唯一無二の、ニューヨーク・ストーリーなのである。
- 原題/Smoke
- 製作年/1995年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/113分
- 監督/ウェイン・ワン
- 製作/ピーター・ニューマン、グレッグ・ジョンソン、堀越謙三、黒岩久美
- 製作総指揮/ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、井関惺
- 脚本/ポール・オースター
- 撮影/アダム・ホレンダー
- 音楽/レイチェル・ポートマン
- 美術/カリナ・イワノフ
- 編集/メイジー・ホイ
- ハーヴェイ・カイテル
- ウィリアム・ハート
- ハロルド・ペリノー・ジュニア
- ストッカード・チャニング
- フォレスト・ウィテカー
- アシュレー・ジャド
- ジャレッド・ハリス
- ヴィクター・アルゴ
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