『ピクニックatハンギング・ロック』(1975年/ピーター・ウィアー)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ピクニック at ハンギング・ロック』(原題:Picnic at Hanging Rock/1975年)は、ピーター・ウィアー監督がオーストラリアで起きた不可解な失踪事件を基に、文明の抑圧と原始的な自然の対峙を描いた幻想的サスペンスである。1900年のバレンタインデー、岩山でのピクニック中に名門女子学校の生徒たちが忽然と姿を消す。レイチェル・ロバーツやアン=ルイーズ・ランバートらが出演し、ラッセル・ボイドが手掛けた絵画的な映像は英国アカデミー賞撮影賞を受賞した。パンフルートの音色と共に映し出される岩山の威容や少女たちの危うい官能性は、観る者に論理を超えた恐怖を植え付ける。オーストラリア・ニューウェーブを象徴する一編。
- 第30回英国アカデミー賞:撮影賞受賞
- 第60回キネマ旬報(外国映画):第7位
理性を焼き尽くす白昼夢──「論理の死」がもたらす極上の酩酊
『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年)は、1900年のオーストラリアを舞台にした、あまりにも美しく、あまりにも不気味な白昼夢だ。
物語はバレンタインデーの朝、厳格な全寮制女子学校アップルヤード女学院の生徒たちが、現地の名所である巨大な岩山ハンギング・ロックへピクニックに出かけるところから始まる。
しかし、楽しいはずの午後は一転、取り返しのつかない悪夢へと変わる。数人の美しい生徒と教師が、まるであらかじめ決められていた運命であるかのように岩山の裂け目へと吸い込まれ、二度と戻ってこなかったのだ。
しかもこの映画が提示するのは「犯人は誰か」「彼女たちはどこへ消えたのか」といった、チンケな謎解きミステリーじゃない。これは、我々の貧弱な近代的な理性が、圧倒的な大自然の神秘の前にあっけなく膝を屈し、無様に崩壊していくプロセスを極上の映像体験として楽しむ、究極のエンターテインメントなのだ。
映画の冒頭、この事件がいかにも実話であるかのような重々しい字幕が流れるが、これこそが巨匠ピーター・ウィアーが仕掛けた最初のトラップ。実際には、ジョーン・リンジーによる完全なフィクション小説だ。
撮影現場では実際に時計が次々と止まり、機材が原因不明の故障を起こし、録音データには身に覚えのないノイズが混入したという。この呪われた現場の空気感、土地そのものが放つ磁場のようなものが、そのままフィルムに焼き付いている。
特筆すべきは、「音」による恐るべき心理的侵食。ウィアーは観客の不安を無意識下から煽るため、ゲオルゲ・ザムフィルによるパンフルートの神秘的な旋律を全編に響かせた。
しかも、録音エンジニアに地震の低周波振動音や、数千匹のミツバチが羽ばたくような不穏な羽音を加工させ、人間の可聴領域ギリギリのレベルで環境音の背景に忍ばせたのだ。
この低周波の恐怖は、観客の脳の扁桃体を直接刺激し、理由のない吐き気や目眩、そして圧倒的な「ここには居てはいけない」という不安を引き起こす。少女たちの台詞の語尾にもわずかなエコーがかけられ、言葉そのものが意味を失い、陽炎のように霧の中へ溶けていく。
光は白く飛び、音響は不気味に反響し、時計の針が12時ちょうどで止まった瞬間、時間は液体のように溶け出す。これこそが映画の魔法、いや、もはや観客を逃がさない一種の催眠術ではないか。
ウィアーがこの作品で目指したのは、紛れもない「論理の死」である。彼は編集段階で、事件の真相を説明するような野暮なカットを徹底的に排除した。
後に彼は「答えを与えることは、観客から映画を奪うことだ」と語っている。その言葉通り、我々はスクリーンの前で、ただ不可解な光に目を焼かれるしかない。
この圧倒的な没入感、そして説明を完全に拒絶される快感こそが、本作を半世紀以上にわたってカルト的な頂点に君臨させ続けている真の理由なのである。
抑圧されたヴィクトリア朝のエロス
ピクニックの最中、そそり立つ巨大な岩山を見上げてアーマはこう呟く。「100万年も待っていたのね、私たちが来るのを」。
ここで描かれるハンギング・ロックは、単なる美しい風景の背景ではない。それは明確な意思を持ち、処女たちの匂いを嗅ぎつけ、誘惑し、そして丸のみにして捕食しようとする、巨大な主体だ。
灼熱の太陽の下、少女たちが黒いストッキングを脱ぎ、窮屈なコルセットを脱ぎ捨てて、裸足でゴツゴツとした岩肌を登っていく姿。それは、ヴィクトリア朝時代の「矯飾された女性性」という息苦しい服を脱ぎ捨て、本来の野生へと回帰していく、あまりにもエロティックで、かつ暴力的な儀式である。
当時のコルセットは単なる衣服ではなく、男性社会という檻に女性の肉体を閉じ込めるための拘束装置だった。そのボタンが一つずつ外され、純白のペチコート姿になったとき、そこには解放の法悦と同時に、文明社会を裏切るという背徳感が同居している。
失踪する美少女ミランダ(アン=ルイーズ・ランバート)は、ボッティチェリの名画「ヴィーナスの誕生」をイメージして意図的に演出されていた。つまり彼女は血の通った人間というよりも、最初から「美」というイデアがこの世に受肉した存在だったのだ。
しかもウィアー監督は撮影監督のラッセル・ボイドに対し、驚くべき指示を出している。なんとカメラのレンズに極薄のウェディング・ベールを被せて撮影するように命じたのだ!
この狂ったアナログ手法が、最新のデジタル技術では絶対に再現できない、あの乳白色に淡く滲む天国のような地獄の映像美を作り出した。光の粒子が画面全体に乱反射し、少女たちの肌は発光しているかのように輝く。
厳格を絵に描いたような教育者であるミス・マクロウまでもが、生徒の後を追うようにスカートを脱ぎ捨て、下着姿のまま呆然と岩山を彷徨うシーンの衝撃たるや。
長年かけて築き上げられ、抑圧されてきた大人の理性が、太古の自然を前にしていとも簡単にぶち壊されていく。ウィアーはここで、我々が近代社会で必死に守り抜いている「常識」や「規律」がいかに脆く、そして大自然の前では無力であるかを、容赦なく突きつけてくる。
白人社会を喰らう地霊の報復
原作者ジョーン・リンジーの小説には、出版当時から長年封印されていた「第18章」が存在する。
作者が死ぬまで公開を禁じ、1987年になってようやく世に出たその章には、少女たちが岩山の裂け目で時間の止まった異次元の入り口を見つけ、コルセットを投げ捨てるとそれが空中で静止し、彼女たち自身が蛇やトカゲへと姿を変え、穴の奥深くへと消えていくという、あまりにも露骨な超常現象の結末が描かれていた。
しかし、ピーター・ウィアーはこの具体的な解決編をあえてゴミ箱に叩き捨てる。すべてを説明してしまうオチを徹底的に排除し、観客を永遠の謎の前に宙吊りにすることで、この映画を「永遠に解けない美しい呪い」へと昇華させたのだ。
では、なぜ少女たちはあの場所で消えなければならなかったのか?その答えは、オーストラリアという国家の血塗られた歴史にある。ハンギング・ロックという土地は、もともと植民地支配によって虐殺され、奪われた先住民アボリジニの神聖な聖域。ドリームタイム(創世神話の不可視の時間が今も色濃く息づく場所だ。
そう考えると、アップルヤード女学院自体が大地に対する決定的な冒涜であり、イギリスによる植民地主義的な暴力そのものと考えられる。少女たちの失踪とは、驕り高ぶった白人社会が未知なる土地の精霊に呑み込まれていく強烈な寓話なのだ。あの岩山は、侵略された大地が静かに吐き出す毒であり、数万年の時を超えたアボリジニの魂の報復なのである。
ウィアーがあえて謎を解かないのは、白人の理性が絶対に支配できない他者(自然)を描きたかったからではないか。近代理性という名のサーチライトがどれだけ照らしても届かない暗闇、そこにこそ世界の真実が隠されている。
ピーター・ウィアー作品に通底する、理性の敗北
この「近代理性の敗北」と「支配不可能な他者への畏怖」は、ウィアーのフィルモグラフィー全編に通底する最強のテーマでもある。本作で突きつけられた圧倒的な未知へのアプローチは、その後も形を変えて何度も反復されていくのだ。
たとえば、ハリウッド進出後の代表作『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985年)もその見事な変奏だ。ここではフィラデルフィアの敏腕刑事ジョン・ブックが、近代的な警察機構と暴力というロジックで事件を解決しようと試みる。
しかし、目撃者となった少年を守るために潜伏したアーミッシュの村という太古の信仰が息づく異世界の前に、彼の現代的な常識や力は次第に機能不全に陥っていく。
ハンギング・ロックの岩山が放っていた人を飲み込むような未知の磁場は、本作では近代化を拒絶して生きるアーミッシュの強固なコミュニティとして描かれ、近代理性がいかに異文化の前に無力であるかを浮き彫りにするのだ。
『モスキート・コースト』(1986年)では、その視点はより研ぎ澄まされる。天才発明家がジャングルの奥地に巨大な製氷機を作り、自然をコントロールするという、傲慢な白人的ユートピアを築こうとするが、熱帯の自然は彼の理性をあざ笑うかのようにすべてを飲み込んでいく。ハンギング・ロックの学院長が陥った「管理しようとする者の狂気」が、そのまま主人公に重なる。
一見毛色が違うように見える『トゥルーマン・ショー』(1998年)も、実はこのテーマの反転だ。TVプロデューサーは天候から太陽の動きまで、すべてを理性の力でコントロールする神として君臨している(プロデューサーの名前は、キリスト(Christ)をもじったであろうクリストフ(Christof)だ)。
しかし、主人公トゥルーマンの「本物の世界を知りたい」という内なる野生は、その完璧なセットを突き破る。ハンギング・ロックの少女たちがコルセットを脱ぎ捨てて未知の岩山へ向かったように、トゥルーマンもまた、安全だが偽物の世界を捨て、荒れ狂う海へと船を出すのだ。
ウィアーの映画は常に、安全な日常(理性・文明)と危険な未知(自然・狂気)の境界線に立つ人々の姿を描き続けてきた。ハンギング・ロックの岩山の裂け目、その異界への入り口を覗き込んでしまった者は、二度と元の合理的な世界には戻れない。理性の敗北を受け入れること、それこそがウィアーの提示する、最も美しく、最も恐ろしい映画体験なのである。
『ピクニック at ハンギング・ロック』の最後、残されたのは、学院の崩壊とともに狂気に陥ったアップルヤード学院長の悲劇的な末路と、夕闇の中にそそり立つ岩山の冷徹なシルエットだけだ。
それは、自然を「管理」し、人間を「教育」できると思い上がった西洋の植民地主義が、内側からボロボロに自壊していくプロセスなのである。
参考文献・出典
- 監督/ピーター・ウィアー
- 脚本/クリフ・グリーン
- 製作/ハル・マッケルロイ、ジム・マッケルロイ、A・ジョン・グレイヴス
- 製作総指揮/パトリシア・ロヴェル
- 原作/ジョーン・リンジー
- 撮影/ラッセル・ボイド
- 音楽/ブルース・スミートン
- 編集/マックス・レモン
- 美術/デヴィッド・コッピング
- 衣装/ジュディ・ドースマン
- ピクニックatハンギング・ロック(1975年/オーストラリア)
- 危険な年(1983年/オーストラリア)
- 刑事ジョン・ブック/目撃者(1985年/アメリカ)
- グリーン・カード(1990年/アメリカ)
- トゥルーマン・ショー(1998年/アメリカ)
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