村上春樹作品映画化の限界を残酷に証明してしまった、生と死のテキスト
「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ」
近代文学が、「セックスと死」を拠り所にして物語を紡いだのに対し、村上春樹はそれを否定することから創作活動をスタートさせた。
冒頭の一節は、群像新人文学賞を受賞した処女作『風の歌を聴け』(1979年)からの一節だが、彼の文学的アチチュードを雄弁に示したものと言えるだろう。日本近代文学から遠く離れ、翻訳調の口語体を駆使することによって、ムラカミ文学は独自のポジションを確立するに至ったのだ。
やがて、村上春樹は忌避したはずの「セックスと死」を意図的にモチーフとして組み込み、新たな文学的地平を拓こうとする。『ノルウェイの森』(1987年)と名付けられたその奇妙な恋愛小説は、爆発的なヒットを飛ばし、皮肉なことに彼の代表作として世間に認知されてしまった。
アウトラインを語ってしまえば、とにかく手当たり次第に女と寝まくる男がいて、その周りで知人・友人がバタバタと死んでいくという、かなりしょーもない話。しかしこの「セックスと死」しかない“ミもフタもなさ”こそが、ブンガクとしての深度と純度を高めたんである。
さてこれを映像で語るとなると、いささか困ったことになる。「セックスと死」しかない“ミもフタもなさ”が、画と色と音を従えて血肉化するやいなや、単なる「色情魔たちのハレンチドラマ」にしか見えてこないのだ。
『青いパパイヤの香り』(1993年)や『夏至』(2000年)など、繊細かつ叙情的な作品を上梓してきたトラン・アン・ユンは、偉大な日本の恋愛小説を映画化するにあたって、物語の上澄みの部分だけしか掬えなかったんである。
村上春樹作品全てに共通していることだが、基本的なストラクチャーは“現実と異界を行き来する物語”。つまり、死界に足を半歩踏み入れている直子と、活き活きとした生(性)を付与する緑の、二人のヒロインの狭間で揺れ動く青年のドラマだ。
だからこそ、ドラマは生と死のコントラストを的確に、丁寧に描くことが肝要となる。しかしながら、トラン・アン・ユンはあらゆるシーンをリリカルに描いてしまっており、その対比が前景化してこないのだ。
さらに言うなら、キャスティングにも相当問題がある。直子を演じる菊地凛子は、横顔が大写しになってもフォトジェニックにはおさまらないし、感情的な芝居になるとややクドすぎる。
早朝に草原を何往復もしながらワタナベに性体験を告白するシーンなんぞ、カメラがひたすら水平移動するだけの稚拙な演出も相まって、映画のトーンが定まらないほどに「お芝居してます」感がアリアリ。これにはちょっと困った。
緑を演じる水原希子も、モデル出身で演技経験がまったくないため、一本調子の芝居に終始(可愛いから許すけど)。ヒロインを演じる二人がヒロイン役を消化しきれていないのだ。糸井重里&高橋幸宏&細野博臣の文化人のカメオ出演も、やや興醒め感あり。
じゃあこの『ノルウェイの森』が世紀の駄作かといえば、決してそうは思わない。ノスタルジーとモダンが横溢する60年代を再現したセット、リー・ピンビンによる浮遊感溢れるカメラ、鬼才ジョニー・グリーンウッドによる残酷なまでに静謐なサウンドトラックは、原作が有している透明な空気感をスクリーンに映し出している。
ムラカミ文学を映画化するという困難な冒険において、トラン・アン・ユンはイメージの醸成という点では成功している。これ以上ない、というくらいに。同時に、それがある種の限界であることも、残酷に証明してしまったのだ。
- 製作年/2010年
- 製作国/日本
- 上映時間/133分
- 監督/トラン・アン・ユン
- プロデューサー/小川真司
- エグゼクティブプロデューサー/豊島雅郎、亀山千広
- 原作/村上春樹
- 脚本/トラン・アン・ユン
- 撮影/マーク・リー・ピンビン
- 美術/イェンケ・リュゲルヌ、安宅紀史
- 編集/マリオ・バティステル
- 音楽/ジョニー・グリーンウッド
- 照明/中村裕樹
- 録音/浦田和治
- 松山ケンイチ
- 菊地凛子
- 水原希子
- 高良健吾
- 霧島れいか
- 初音映莉子
- 柄本時生
- 糸井重里
- 細野晴臣
- 高橋幸宏
- 玉山鉄二
最近のコメント