とにかく、ひとつひとつのカットの充実度がハンパない。特に暗がりの中、水たまりの廃墟を歩く役所広司の靴を横パンで捉えたショットなんぞ、もはや『惑星ソラリス』(1972年)のような、アンドレイ・タルコフスキー的世界に隣接している。
僕的には、カリスマという一本の木の下に佇む役所広司、このカットだけでもうオーケー。いやー何という映像的吸引力。“光”と“風”をこれだけ使いこなしてくれれば、お話なんてどーでもいいです。
いや、良かないんですが、でもいいです。許します。それだけ、『カリスマ』は目を見張るショットに満ちあふれてるのだ。
個人的に好きなのは、寝たきりの院長夫人(目黒幸子)と薮池(役所広司)が、雨のなか差し向かいで話すシーン。実は黒沢映画で、こういう構図は非常に珍しい。
基本的に黒沢清は、会話する二人を真っ正直に向かい合わせることを好まない。肩嘗めで相手のクローズアップを切り返したりもしない(そもそもカットを割らない演出が信条だ)。窓ガラス越しだったり、遮断物を置いたりすることによって、対話する二人の構図にアクセントをつけている。
黒沢清にしては珍しく、この雨の対話シーンは直球ストレートな構図なんだが、他のカットが変化球ばかりなので、逆に映像に不思議な違和感が付与される。このあたりの計算は見事というしかない。
黒沢清の映像設計は、それ自体がビジュアルとして屹立した強度を勝ち得ていると同時に、登場人物のキャラを際立たせる羅針盤的役割も担っているのだ。
例えば、自宅でくつろぐ神保姉妹の姿を、斜俯瞰から捉えたシーン。そよぐ風がカーテンを揺らし、これ以上ないほどクワイエットな空間が広がっている。
この強烈な“白”のイメージは、「自然は協調していかなくてはならない」という信念を持つ植物学者の神保美津子(風吹ジュン)のキャラクターと共振。
根から毒素を分泌して周囲の木々を枯らすカリスマを、「強いものが勝つ」という弱肉強食ロジックで正統化する桐山(池内博之)が、薄暗い廃墟に住んでいるのと好対照を成している。この対比は素晴らしい。そしてこのコントラストの狭間に、役所広司は佇んでいる訳だ。
特別な木も森全体もない。あっちこっちに平凡な木が1本ずつ生えている。それだけだ
刑事として、人質と犯人の両方を助けようした結果、二人とも死なせてしまうというトラウマを抱えてしまった彼は、風吹ジュンの自然協調説も池内博之の弱肉強食説も受け入れたうえで、「あるがままに」というレット・イット・ビーな境地に達する。
森全体が生き残ろうが、特別な木だけが生き残ろうが、はたまた全てが死に絶えようが、それが自然の摂理ならエブリシング・オーライ。
前作『CURE』では、殺人行為によって社会的自縛から解き放たれた主人公は、世界をカオス(何でもアリ)の状態にすることによって、自由への査証を得るのだ。
真っ赤な炎に包まれた首都、旋回するヘリコプター。1999年製作の映画にふさわしい、いかにもワールド・エンドなエンディングは、カオスと化した世界に足を踏み入れようとする瞬間でもある。巨木をピストルで木っ端みじんにしたあと、役所広司は風吹ジュンに「たぶん、これが始まりです」と語った。
それは黒沢清という類い稀な映像作家による、偉大なるフィルモグラフィーの始まりを代弁したものかもしれない。
- 製作年/1999年
- 製作国/日本
- 上映時間/104分
- 監督/黒沢清
- 脚本/黒沢清
- プロデューサー/神野智、下田淳行
- 製作総指揮/中村雅哉、池口頌夫
- 企画/吉田達、鵜野新一、有吉司
- 撮影/林淳一郎
- 編集/菊池純一
- 美術/丸尾知行
- 音楽/ゲイリー芦屋
- 役所広司
- 池内博之
- 大杉漣
- 風吹ジュン
- 洞口依子
- 松重豊
- 塩野谷正幸
- 大鷹明良
- 目黒幸子
- 戸田昌宏
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