ハリー・ディーン・スタントンが体現する“だらしなさ”を享受し、心行くまで咀嚼すべき映画
ヴェンダースの綴る物語の、このどうしようもない「だらしなさ」は何なのだろう。
それはストーリーが間延びしているということではなく、構成に緩みがあるということでもなく、その「だらしなさ」がアメリカ映画の本質というばかりに「だらしがない」のである。 まるで伸びきったゴムのように。
『パリ、テキサス』(1984年)は、その負け犬っぷりが世のダメ男を虜にするアウトロー俳優ハリー・ディーン・スタントンが、荒涼としたテキサスの砂漠地帯を歩くシーンで始まる。空はどこまでも青く、大地は乾いている。直射日光を背中に受けながら、男は無表情に黙々と歩き続ける。その、何と心地のよいだらしのなさ。
『パリ・テキサス』は、ライ・クーダーの乾いたスライドギターをオカズに“だらしなさ”を享受し、心行くまで咀嚼すべき映画なのである。
『パリ、テキサス』で私は最後のアメリカ映画を撮ったつもりだ
と、ドイツ人監督ヴィム・ヴェンダースは語る。ははあ、ヨーロッパの感性で撮られたアメリカ映画だから『パリ、テキサス』なのか。あまりにも直裁な比喩ではあるけれど。
それは、物語の効率化に心を砕く「ハリウッド型エンターテインメント指向作品」へのアンチテーゼであろうし、外部から見た「古きよきアメリカ」のリコンストラクションなのだ。
だから 『パリ・テキサス』は、実にオーソドックスな映画的手法によってつくられている。トラヴィスとナスターシャ・キンスキー演じる妻(そのクール・ビューティーぶりはちょっと異常!)との会話シーンが、マジックミラー越しの一方通行で、二人の距離感を分かりやすいくらい映画的な隠喩で表現しているのはもちろん、「パリ」という地名に秘められたエピソードをミステリー的筋立てにしているのはその証左だろう。
妻が乗っている赤い車を追跡するシーンの映画的興奮(似たような赤い車が二台並んでいて、その一台が車線変更をしてしまうサスペンスタッチの描写)など、全体としてルーズな印象を受けつつも、細部はしっかり映画として充実しているんである。
しかし、僕はこの作品を愛せない。いい映画だとは思うけど。…それでも、どうしても愛せない。過去に時間を置き忘れた男が、己を取り戻すために歩む旅路は、
実の弟と再会し、ロスの自宅で離れ離れになっていた息子ハンターと出逢う→
ハンターと一緒に別れた妻を探す旅に出る→
妻と再会して過去を贖罪し、ハンターと引き合わせる
という3つの行程を歩む。過去にケリをつけられなかったトラヴィスは最後、妻にハンターを託して去っていく。それは家族の再生が目的ではなく、自分が救われんがための行為なのだ。
トラヴィスは自分に関わる者たちを顧みようとしない。ディーン・ストックウェル演じる弟夫婦も、息子も、妻も。それが、この映画に違和感を感じてしまう理由である。
僕はハリー・ディーン・スタントンのダメ男ぶりも愛せない。たぶんそれは、同類嫌悪なんだろう。僕だって哀しいくらいダメ男で、自暴自棄な時期もあった。あの頃の自分を鏡越しに見たくないのと同じように、ハリー・ディーン・スタントンを真正面に見据えることができない。
僕はこの作品を愛せない。
- 原題/Paris,Texas
- 製作年/1984年
- 製作国/西ドイツ、フランス
- 上映時間/146分
- 監督/ヴィム・ヴェンダース
- 製作/クリス・ジーヴァニッヒ
- 製作総指揮/アナトール・ドーマン
- 脚本/サム・シェパード
- 撮影/ロビー・ミュラー
- 音楽/ライ・クーダー
- 編集/ペーター・プルツィゴッダ
- ハリー・ディーン・スタントン
- ナスターシャ・キンスキー
- ディーン・ストックウェル
- オーロール・クレマン
- ハンター・カーソン
- ベルンハルト・ヴィッキ
- トム・ファレリ
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