宮崎駿がセカイ系な手つきで描く完全無欠なラブストーリー
高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(2000年)が巧妙だったのは、大きな物語を支える「大状況」と、個人の物語を描く「小世界」を完全に隔離させるという、「セカイ系」としての骨格を保っていたからだ。
ヒロインのちせは、日本政府によって改造された「最終兵器」として、日夜“敵”と戦っている。彼女が「誰と」「何の為に」戦っているのかは最後まで語られることはなく、「大状況」が不明のままストーリーが帰着する。
故に、高校生カップルのラブラブな「小世界」が相対的に浮かび上がってくる訳で、いわば「大状況」の欠落は、ラブストーリーの純度を高めるための装置として、意図的・計算ずくだったのである。
しかし宮崎駿の関心は、常に「大状況」と「小世界」をどう同居させていくかにあったハズ。例えば『風の谷のナウシカ』(1984年)では、2000年前の核戦争によって世界は腐海と化してしまった、という「大状況」がまず語られる。
人間の生存には腐海は焼き払うべき存在なのだが、腐海は実は地球の浄化作用を促しており、地球を汚しているのは人間そのものだった、という皮肉な現実。
ナウシカはそんな「大状況」と、風の谷の人々を守りたいという「小世界」的葛藤をパラドックスとして抱えこむ。その相克が骨太なドラマツルギーとなり、単純な善悪の二元論には収まらない多重層的物語が生成されるのだ。
この内的葛藤はおそらく宮崎自身の葛藤でもある。テーマとして同一線上にある『もののけ姫』あたりになるとそのパラドックスが沸騰点に達して、「(生きる根拠・理由は明確には見つけられないながらも)生きろ!」という、開き直り&投げやりメッセージに収束される。まあ相克と言うよりも、分裂と言ったほうが近いかもしれませんが。
さて、『ハウルの動く城』(2004年)は、明らかにソフィーとハウルのラブストーリーを軸とした「小世界」の物語である。「大状況」としての戦争のディティールは、(おそらく意図的に)ほとんど語られることはない。しかし『最終兵器彼女』と決定的に違うのは、その大状況の欠落は、純愛を増幅させる為の装置ではない、ということだ。
それは、「集団的自衛権は行使されるべきか」とか、「憲法9条改憲すべきかどうか」とか、現実世界で大状況とどう向かい合っていくべきかを問われている、我々日本人への一つの回答。つまり、宮崎駿なりの所信表明ゆえなのである。彼にセカイ系は描けやしない。
ハウルは戦うことを拒否する。国という単位に属さず、ハウルは己のためだけに翼を広げる。そのスタンスは、宮崎本人を擬人化、いや擬豚化した『紅の豚』(1992年)と何ら変わらない。
しかしその時点で、ナウシカやアシタカが抱えてきたドラマとしての相克は放棄されてしまう。時代に対応した描き方、といえばきこえはいいが、僕には映画としてかなり致命的な瑕疵に思える。
さらに言えば、常に物語はソフィーの視点で進行するにもかかわらず、僕は最後まで彼女の行動原理が理解できなかったし、「この馬鹿な戦争を終わらせましょう」というラストの安易なオチの付け方にも不満だった。
実質的な脚本が存在せず、宮崎が絵コンテを切りながらどんどんストーリーを構築していくという、天才のみに許された創作術がこの映画では破綻している。賞賛されるべきは、久石譲の華麗なワルツ音楽ぐらいか(キムタクの吹き替えも全然悪くなかったです)。
《補足》
最近気づいたんだが、宮崎アニメにはやたら女性が掃除するシーンが出てくる。『天空の城ラピュタ』(1986年)でシータが空賊艇の台所を拭き掃除したり、『魔女の宅急便』(1989年)でキキがオソノさんに借りた部屋を掃除したり、『千と千尋の神隠し』(2001年)で千が湯治場を掃除したり。
今回の『ハウルの動く城』でも、ソフィーはまず掃除することによってハウルの信頼を得る。女性たちは掃除という行為によって、つまり共同体にコミットすることによって、物語に参加する資格を得る。やっぱり宮崎はコミュニタリアンだ。
- 製作年/2004年
- 製作国/日本
- 上映時間/119分
- 監督/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- プロデューサー/鈴木敏夫
- 原作/ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
- 音楽/久石譲
- 製作担当/奥田誠治 福山亮一
- 作画監督/山上明彦、稲村武志、高坂希太郎
- 美術監督/武重洋二、吉田昇
- 色彩設定/安田道世
- デジタル作画監督/片塰満則
- 整音/井上秀司
- 効果/野口透
- 倍賞千恵子
- 木村拓哉
- 美輪明宏
- 我修院達也
- 神木隆之介
- 伊崎充則
- 大泉洋
- 大塚明夫
- 原田大二郎
- 加藤治子
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