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『屋根裏の散歩者』(1992)乱歩×実相寺、覗きと欲望のゴシック幻想

『屋根裏の散歩者』(1992)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

“倒錯”が宿命的に交わる地点

戦前・戦後を跨いで日本文学の深層に奇妙な“影”を刻んだ江戸川乱歩と、特撮から文芸映画までジャンルを自在に横断しつつも常に“視線の異常”を持ち込んだ実相寺昭雄。

この組み合わせは、結果として『屋根裏の散歩者』(1992年)という異様な密度の映画を生むのだが、そもそも両者の感性が同じベクトルに向いていたのは、ほとんど宿命のようなものだった。

どちらの作家も、他者へのまなざしや身体の歪みを“倫理の外側”で扱うことをためらわず、その倒錯性を美学へと昇華する。乱歩の文章に漂う“影の湿度”と、実相寺のカメラが捉える“光の不安定さ”は、その組み合わせだけで化学反応を起こす。

『屋根裏の散歩者』(1992年)は、江戸川乱歩生誕100周年を記念して企画が立ち上がった。今や“日本映画界を牽引するキーパーソン”として知られる一瀬隆重プロデューサーが監督に指名したのは、そのキャリアの中で比類なきジ・ウェイ・オブ・変態を突き詰めてきた実相寺昭雄。

この人選の時点で、映画は既に“正常性”というレールから外れることが決定していたとも言える。乱歩の倒錯と実相寺の倒錯が出会ったら、そりゃもう倒錯しか生まれない。

その証拠に、物語に一歩足を踏み入れた瞬間から空気がねーーーーーーっとりしている。厭世気分にどっぷりハマった高等遊民が、屋根裏から下宿人を覗き見し始め、ついでに上から毒薬を垂らして殺しもするという、乱歩らしい陰鬱と快楽が共存する世界。

この“覗く”という行為は、ただの倒錯趣味ではなく、世界と自分の境界をズラす行為であり、他者の生活を俯瞰することでしか得られない“絶対的優位”に依存する精神の歪みを描く。

不安定な画面が倒錯を映す

実相寺はこの短編を映像化するにあたって、綺麗に物語を語る気が最初からない。独特のライティング、広角多用のカメラ、バイアスがかかったかのような斜め構図。

スタイリッシュというよりは、感覚を錯乱させるためのアクロバティックな視覚言語が全編に漂う。画が常に“不安定”で、登場人物の位置関係すら怪しくなる。観客はいつの間にか、主人公の“ズレた視点”に強制参加させられていく。

やはりその作家生活のなかで、並ぶもののないザ・ロード・トゥ・変態を突き進んだ江戸川乱歩との親和性が高いことは分かりきっている訳で(とどのつまり二人とも変態な訳です)、このマッチメイクは必然だったと言えるだろう。

ここに実相寺の手が乗ると、乱歩の倒錯世界は“観察倫理の破綻”“視線の階層化”“身体の断片化”といったテーマを帯びはじめ、映画は単なる猟奇譚ではなく“視線そのものに取り憑かれた作品”へ変質していく。

三上博史演じる主人公の生活は、倒錯と自堕落がごちゃ混ぜになった終末的オーディナリー・ライフだが、映画はその堕落ぶりを決して笑いにはしない。

むしろ、人の内側にこびりついた“見たい/覗きたい”という原初的な欲望を、堂々と構造的に提示する。彼の周囲に散りばめられた性的倒錯者たちは、物語と交差しない“欲望の断片”として存在する。

SM、レズ、放尿と、変態行為のフルコースを見せつけながらも、それらが物語に絡むことはない。この距離感こそが乱歩的だ。他者の欲望は他者の欲望として、ただ“そこにある”だけで、決して主人公と融和しない。

断絶する欲望と時代性

さらに言えば、この映画はポルノグラフィックな描写を採用しているにもかかわらず、目的は性の刺激ではない。欲望が孤立し、接触しないという“断絶の構造”を可視化するための装置として機能している。

宮崎ますみはヒロインの立ち位置にいるはずなのに、まるで物語に絡まない。これも“接触しない欲望”を、美術的に強調するための配役なのだ。

そして嶋田久作の明智小五郎。このキャスティングが象徴的で、彼は伝統的な「名探偵」ではなく、“観察者の亡霊”として振る舞う。三上の犯罪を見逃すあのラストは、倫理ではなく“共犯的情念”を優先する倒錯の連帯であり、原作にはない非常に実相寺的な逸脱だ。ここで映画はついにミステリーの枠を脱ぎ捨て、情念の映画へとシフトする。

物語の冒頭でカタツムリが鏡を這うショットが出てくるが、雌雄同体の象徴としてのカタツムリ=自己のなかに潜む異性性の暗喩、そのあとに三上博史の女装シーンが滑り込んでくるモンタージュは、まさに実相寺の“欲望の接続のさせ方”が露骨に出た場面だ。乱歩の倒錯性を、心理ではなく“映像のリズム”で提示する。

ここから映画は、屋根裏という“都市の影”で徹底的に世界を覗き込む装置へと変貌する。屋根裏という空間は、下宿人の生活を俯瞰しながら、同時に自分が不可視になる“特権の巣”。

その構造は、覗きの快楽ではなく、“倫理以前の支配欲”の舞台装置であり、観客もその構造の内部へ引きずり込まれる。広角で歪んだ空間は、登場人物の心理の歪みをそのまま反映し、光は安定を拒否し、構図は常に斜めに傾く。すべてが“正しさ”から逸脱した場所で、物語は進む。

そして、東栄館に集まった倒錯者たちの“見世物感”。彼らと主人公は決して交わらない。乱歩が繰り返し描いた“接点のない欲望の群像”がここでも再現される。映画の卑猥さは、物語の淫靡さではなく、この“断絶そのもの”から発生している。

実相寺の映像には、倒錯が心理ではなく“空間の歪曲”として表現される瞬間が多い。陰影の濃さ、レンズの歪み、カメラの傾斜。これらのノイズが積み重なることで、観客は“まともに世界を見られない視線”へ移植される。これこそが実相寺的倒錯の核心であり、乱歩の偏執と結びつくことで、映画は単なる変態映画の域を軽々と超えていく。

本作が1992年に作られたことも重要だ。バブル崩壊後、日本社会は欲望の取り扱いに迷い、匿名化された孤独が都市のそこかしこに沈殿していた。

“覗く行為”が社会的に増殖していく時代。レンタルビデオ、深夜番組、AV市場の巨大化。欲望の視線が匿名化され、人々は“見たい”と“見られたい”のあいだで揺れ動いていた。『屋根裏の散歩者』は、その文化心理を乱歩的倒錯へと翻訳する映画でもある。

最終的に『屋根裏の散歩者』は、倒錯を描く映画でありながら、倒錯を通して“人間を照らす映画”でもある。欲望は他者へ向かう矢印ではなく、しばしば自分自身へ反射する鏡だ。

鏡に映る影を見るとき、人は自分の中に潜む“異形の部分”に触れてしまう。この映画は、その瞬間をじっと覗き込んでいる。

DATA
  • 製作年/1992年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/77分
  • ジャンル/ミステリー
STAFF
  • 監督/実相寺昭雄
  • 脚本/薩川昭夫
  • 製作/田澤正稔、鵜之沢伸
  • 製作総指揮/一瀬隆重、瀬田素、石原真
  • 原作/江戸川乱歩
  • 撮影/中堀正夫
  • 音楽/松下功
  • 編集/井上治
  • 美術/池谷仙克
  • 録音/木村瑛二
CAST
  • 三上博史
  • 宮崎ますみ
  • 六平直政
  • 加賀恵子
  • 嶋田久作
  • 清水ひとみ
  • 寺田農
  • 平賀勘一
  • 斎藤聡介
  • 鈴木奈緒
  • 小林政宏
  • 堀内正美
FILMOGRAPHY