『ダーティハリー』(1971年/ドン・シーゲル)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ダーティハリー』(原題:Dirty Harry/1971年)は、名匠ドン・シーゲルが盟友クリント・イーストウッドを主演に迎えた、ポリス・アクションの金字塔。サンフランシスコを舞台に、組織の規律を無視してでも悪を裁く「汚い仕事」を一手に引き受ける刑事ハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)が、街を恐怖に陥れる狂気の無差別狙撃犯スコルピオ(アンディ・ロビンソン)を追いつめていく。伝説的な「Do I feel lucky?(ツイてるか?)」のモノローグや、ゾディアック事件を彷彿とさせるスコルピオの剥き出しの狂気が、後のアクション映画に多大な影響を与えた。
- 第46回キネマ旬報(外国映画):第2位(読者選出)
戦争の後遺症と「正義」の崩壊
ベトナム戦争での事実上の敗北は、アメリカ社会に修復不能な亀裂とトラウマを残した。それは国家の権威そのものの失墜であり、司法制度や警察機構に対する激しい不信感となって表れることになる。
この1960年代後半から70年代初頭は、まさに価値観の転換期だった。映画界でもヘイズ・コードが崩壊し、アメリカン・ニューシネマが台頭。かつてジョン・ウェインやゲイリー・クーパーが体現したような「清く正しいアメリカ」は、もはや完全に絵空事となってしまったのである。
「正義」という理念が信用を失い、ヒッピー文化の裏側でドラッグと暴力が蔓延する混沌とした都市。そこで観客が求めたのは、勧善懲悪という甘い枠組みをかなぐり捨て、制度の枠を超えた暴力によって悪を裁く、新時代のアンチヒーローだった。
その象徴的かつ決定的な作品こそが、ドン・シーゲル監督による『ダーティハリー』(1971年)である。
実は、主役のハリー・キャラハン役には当初、フランク・シナトラが内定していた。しかし、当時すでに50代後半だった彼は、『影なき狙撃者』(1962年)撮影時に負傷した手首のケガを理由に「重い44マグナムは扱えないし、激しいアクションは無理!」と降板してしまう。
その後、ロバート・ミッチャムやポール・ニューマンらにオファーを出すも立て続けに断られ、最終的に白羽の矢が立ったのが、当時マカロニ・ウェスタンで「無口で冷徹なアウトロー」の地位を確立していたクリント・イーストウッドだった。
主演が決まると、『地獄の黙示録』のシナリオを手がけたジョン・ミリアスがクレジットなしでリライトに参加。マカロニ・ウェスタンで培われた「己の銃で秩序を回復する孤独なガンマン」の神話に、ミリアスのシニカルで暴力的なセリフ回しが融合したことで、ハリー・キャラハンは単なる刑事の枠を超え、「現代都市のアスファルトに降り立った死神」として完璧な再誕を遂げたのである。
「Dead Right」という強烈な皮肉
本作を語る上で興味深いのは、オリジナルタイトルが『Dead Right』だったことだ。
これは1966年のミランダ判決を念頭に置いた皮肉だった。容疑者に「黙秘権と弁護士を呼ぶ権利」の告知を義務付けたこの判例は、加害者の権利を保障する一方で「被害者の権利をないがしろにするのではないか」という社会的論争を引き起こした(このあたりの経緯は、町山智浩氏の著書『映画の見方がわかる本』に詳しい)。
つまり『Dead Right』というタイトルには、加害者の権利(Right)が守られる一方で、被害者の権利が文字通り死んでしまっている(Dead)という、強烈なアイロニーが込められているのだ。そして、法が裁けない悪を撃ち抜くためにハリーが手にしたのが、S&W M29・44マグナムである。
お前が何を考えてるか当ててやろう。こいつは6発撃ったか、まだ5発か?
この映画史に残る名ゼリフと共に構えられるこの銃は、もともとグリズリーやシカなどの大型獣を仕留めるための狩猟用リボルバー。反動が大きすぎるため警察用としては全く非実用的で、当時は生産中止寸前のマニアックな代物だったという。
実際、小道具係がスミス&ウェッソン社に手配しようとしても在庫がなく、急遽パーツをかき集めて映画用に組み上げさせたという裏話が残っているほど。
ハリーがこの規格外の銃を選んだことには象徴的な意味がある。彼は単なる法執行官ではなく、コンクリート・ジャングルに解き放たれたハンターなのだ。理屈の通じない狂った獣(スコルピオ)を仕留めるには、一撃で息の根を止める圧倒的な狩猟具が必要なのだ。
巨大な銃(=ファルス的な究極の権力)を持つ男という強烈な記号は、松田優作の『蘇える金狼』(1979年)など、世界中の映画で反撃のシンボルとして消費されていくことになる。映画の大ヒット後、現実の銃砲店から44マグナムが文字通り姿を消したという事実が、本作の異常な影響力を物語っている。
不条理な暴力とゾディアックの影
ドン・シーゲル演出の凄みは、アンドリュー・ロビンソン演じる犯人スコルピオに対し、同情を誘う心理背景やトラウマ、悲惨な生い立ちといった説明を一切与えなかった点にある。
従来のハリウッド映画であれば、悪役にも悪に染まるだけの理由が用意されるのが常道。しかしスコルピオは、金目的の誘拐犯を装いながら、本質的にはただ暴力と殺人を嗜虐的に楽しむだけの、純粋サイコパスとして描かれている。
平和主義者の舞台俳優のロビンソンが狂気たっぷりに演じたこの男は、ハリー・キャラハンが持つ伝統的な男性像とは対極にある、卑小なカオスの象徴なのだ。
スコルピオのキャラ造形は、公開当時サンフランシスコを恐怖のどん底に陥れていた実在の連続殺人鬼、ゾディアック・キラーからインスピレーションを得たもの。
劇中でスコルピオが「スクールバスをジャックして子供を脅す」という展開は、ゾディアックが実際に警察や新聞社へ送りつけた不気味な脅迫文の内容をそのまま引用している。
現実世界の警察は警察組織を嘲笑うゾディアックを捕まえることができず、市民の不満は頂点に達していた。つまり本作は、そんな無力な現実の公権力に対する、映画というフォーマットを使った強烈なリベンジでもあったのだ。
誰が、いつ、どこで理不尽な暴力の標的にされるかわからない。明確な動機を持たない「理由なき悪意」の生々しさこそが、1970年代のアメリカ社会が直面していた出口のない不安そのものだった。
ベトナム戦争の泥沼化や、チャールズ・マンソン・ファミリーによる無差別殺人(シャロン・テート事件)などを経て、かつてのアメリカ市民が信じていた「安全な社会」の神話は完全に崩壊していたのである。
『フレンチ・コネクション』(1971年)におけるポパイ刑事の強引な捜査や、『タクシードライバー』(1976年)の主人公トラヴィスが見せた狂気の浄化と同様に、本作は「法的正義が完全に機能不全に陥った社会」を容赦なく描き出す。官僚主義に縛られた警察組織や、加害者の人権ばかりを重んじる司法制度は、善良な市民を守る盾にはならない。
だからこそ観客は、警察バッジという体制の鎖をかなぐり捨て、自らの掟と44マグナムで悪を粉砕するハリーのビジランティズムに、熱狂的なカタルシスを求めたのである。
ラストシーンでハリーが犯人を撃ち捨て、自らの警察バッジを冷たい水面へと投げ捨てる姿は、もはや機能しない法という建前への決別であり、アメリカ映画史における新たなるダークヒーロー誕生の決定的な瞬間なのだ。
参考文献・出典
- 監督/ドン・シーゲル
- 脚本/ハリー・ジュリアン・フィンク、リタ・M・フィンク、ディーン・リーズナー、ジョン・ミリアス
- 製作/ドン・シーゲル
- 製作総指揮/ロバート・デイリー
- 制作会社/ワーナー・ブラザース、マルパソ・カンパニー
- 原作/ハリー・ジュリアン・フィンク、リタ・M・フィンク
- 撮影/ブルース・サーティース
- 音楽/ラロ・シフリン
- 編集/カール・パインジター
- 美術/デール・ヘネシー
- ボディ・スナッチャー/恐怖の街(1956年/アメリカ)
- 真昼の死闘(1970年/アメリカ、メキシコ)
- ダーティハリー(1971年/アメリカ)
- 突破口!(1973年/アメリカ)
- アルカトラズからの脱出(1979年/アメリカ)
- ダーティハリー(1971年/アメリカ)
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