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翼~武満徹ポップ・ソングス/石川セリ

『翼~武満徹ポップ・ソングス』──石川セリが歌う、武満徹のもうひとつの愛のかたち

『翼~武満徹ポップ・ソングス』(1990年)は、作曲家・武満徹が手がけた映画音楽や歌曲を中心に構成されたアルバムで、石川セリのヴォーカルによって再び生命を得た作品。プロデュースは川口義晴が担当し、服部隆之、羽田健太郎、佐藤允彦、コシミハルらが編曲を務めた。「翼」「恋のかくれんぼ」「見えないこども」など、旋律の中に人の息づかいを感じる楽曲が並ぶ。前衛とポップスの架け橋となる一枚。

旋律の詩人──“歌”を原点としたもうひとつの武満像

日本を代表する現代音楽の作曲家・武満徹。その名を聞けば、無調的で静謐な音の断片、あるいは弦や打楽器が空間を震わせる前衛の響きを思い浮かべる人が多いだろう。だが、このアルバムはまるでその固定観念を裏切るように、甘くセンチメンタルな旋律で満たされている。

プロデュースを手がけた川口義晴の企画は、武満の“歌の側面”を再構築する試みだった。映画音楽の中で生まれた旋律を、石川セリのヴォーカルによって再び息づかせる──それは単なるカヴァー企画ではなく、武満という音楽家のもうひとつの人格を掘り起こす実験でもあった。

興味深いのは、武満自身がシャンソンに憧れて作曲家を志したという事実だ。音列構造を駆使する前衛作曲家でありながら、その原点には「歌」がある。彼にとって旋律とは、理論の対極にある“心の記憶”だった。

武満にとって、映画音楽と歌曲は決して別の領域ではない。どちらも“情動を空間に配置する作業”として同じ文法を共有していた。『他人の顔』や『砂の女』で培われた映像的構築力が、このアルバムでは人間の息づかいへと転化している。

ここで聴ける旋律は、〈映像の音楽〉が〈人のための歌〉へと帰還する瞬間の記録でもある。

声と沈黙──石川セリのアンニュイな風景と〈間〉の美学

石川セリの声には、時代の湿度が宿っている。70年代のシティ・ポップ以前にあった、映画的でアンニュイな情感。『八月の濡れた砂』(1971年)の主題歌で知られる彼女のヴォーカルは、柔らかくも影を持ち、まるで午後の光の粒子のように消えていく。その声が、武満の旋律と出会うとき、そこに生まれるのは“哀しみの輪郭”である。

「翼」「恋のかくれんぼ」「見えないこども」──どの曲にも、彼女の声が持つ“温度のない情念”が流れている。井上陽水の妻という私生活的側面を越えて、石川セリは“日本語の音楽”を繊細に再定義した稀有な歌い手だった。

英語圏のジャズやシャンソンでは得られない、呼吸の揺らぎと間の感覚。武満はその特質を見抜き、感情を抑制した旋律の中に“人のぬくもり”を託したのだろう。

石川セリの声が持つ“余白”の美は、武満の沈黙への信仰と共鳴している。ジョン・ケージとの交流で培われた「音と音のあいだにこそ音楽がある」という思想が、ここでは声と呼吸の揺らぎとして息づいている。

音を鳴らすのではなく、消える音の余韻にこそ真実が宿る──それが武満の“沈黙の哲学”であり、セリの歌声はその現代的な翻訳である。

再構築の芸術──時代の洗練と“人間の音楽”への帰着

このアルバムを特別なものにしているのは、豪華な編曲陣による再解釈の手腕である。服部隆之、羽田健太郎、佐藤允彦、コシミハル──それぞれの音楽家が異なる文法で武満の旋律に生命を吹き込んでいる。

なかでも際立つのは、コシミハルによる編曲群だ。彼女の鍵盤とプログラミングが生み出す音響は、ヨーロッパ的なエレガンスと幻想性に満ち、武満の旋律をまるで香水のように空気へと拡散させる。「恋のかくれんぼ」はその頂点だ。谷川俊太郎の詩と石川セリの囁き声が溶け合い、音とことばが不可分の世界を形成する。

90年代初頭の空気を反映するように、アレンジには当時のアシッド・ジャズやAOR的洗練が漂う。過去の旋律をノスタルジーではなく〈モダンな記憶〉として再構築する、その美学はまさに武満が生涯追い求めた“時間の詩学”である。音は完全に調律されていながら、どこか儚く、消えゆく運命を自覚している。

M-5「翼」は、『筑紫哲也のニュース23』のエンディングテーマとしても知られるが、番組の映像と共に多くの夜を彩ったその旋律は、まるで祈りのように静かだ。

報道番組の冷たい現実に寄り添うような、あの優しい調べ。そこにこそ、武満徹の“社会的感情”が表れている。彼の音楽は、決して高尚な孤島に閉じこもらない。常に“人の生活”の中で鳴り続ける。

このアルバムは、武満徹という作曲家が到達した“人間の音楽”の証左である。前衛と大衆、現代音楽とポップス、理性と感情──それらを分ける線など、もはや存在しない。

石川セリの声がその橋を渡り、コシミハルのアレンジが風景を描き、武満徹がその上に柔らかな旋律の光を投げかけた。

この作品は、戦後日本音楽が辿った軌跡──前衛からポップスへ、孤高から共感へ──その縮図でもある。武満が紡いだ旋律は、ジャンルを越えて“日本語で歌うことの可能性”を問い続けている。静かで、美しく、そして限りなく人間的な音楽のかたちだ。

DATA
  • アーティスト/石川セリ
  • 発売年/1995年
  • レーベル/コロムビアミュージックエンタテインメント
PLAY LIST
  1. 小さな空
  2. 島へ
  3. 明日ハ晴レカナ曇リカナ
  4. 三月のうた
  5. めぐり逢い
  6. 死んだ男の残したものは
  7. うたうだけ
  8. ○と△の歌
  9. 恋のかくれんぼ
  10. ワルツ「他人の顔」より
  11. 見えないこども