伝統的な少女漫画のフォーマットを換骨奪脂した、スラップスティック・コメディー
『花とアリス』というキーワードで片っ端からWEB検索をかけると、どれもこれも「オクテで引っ込み思案な花と、恋愛に積極的なアリス」という、とってつけたようなキャラクター紹介なんだが、本当にそうかぁ?少なくとも僕にとって、花もアリスも「お転婆だが根は純情で素直な女の子」だ。
「最初は花から見たアリスを描こうとしていたけれど、だんだんと両者の関係が拮抗して、物語が変わっていったんです」
と岩井俊二自身が語っているとおり、当初は視点を固定させることによって、シャイな花と快活なアリスを際立たせる計算があったのだろう。しかし、岩井が想像した以上にアリスが物語を牽引し始め、振り子のように花とアリスの視点が交錯する構造に変質してしまった。
「君、だれ?」と宮本は花に問い掛ける。10代という多感な季節は、まさに「自分が誰であるか」を問いつづける青い季節な訳だが、花にとって「自分」とは、宮本先輩が記憶喪失と信じている限り今カノな存在であり、その嘘がばれれば雲散霧消してしまうもの。
つまり彼女は、恋愛というファクターで自分を自分たらしめているんである。だから花は嘘をつく。淡い恋心から生まれた屈託のない悪戯ではなく、それは自分の存在を確認するための通過儀礼なんである。
一方のアリスは、自分から恋愛を招き入れることはしない。それはオトコ関係が派手な母親に対する反発なのだろう。彼女はタレントのタマゴとしてオーディションに参加し、「将来」を模索することによって自分を自分たらしめようとしている。
だからこそ最後のバレエシーンには、少女の成長が一瞬垣間見えるのだ。花に比べて、アリスの家庭環境が丁寧に描かきこまれているのは、両者の「自分たらしめるもの」の差異によるものである。
…とまあいろいろ書いてみたけど、前作『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)とは180°違って『花とアリス』は清涼感溢れるスラップスティック・コメディーなのだから、何も考えずに楽しむのが一番。よくよく観察してみると、そこにはいかにも岩井らしい仕掛けの数々が張り巡らされていることに気付くだろう。
たとえば、相反する要素を同一フレームにおさめる“異化効果”。花が『別れましょうか』と切り出す教室の画面の後ろで、巨大な鉄腕アトムの風船がなびいていたり、宮本先輩に真相を告白するシーンが、なぜか尻を丸出しにして絶叫している落研の先輩とのカットバックだったりは、その一例だ。
もしくは、アジャコングやテリー伊藤、ルー大柴という強烈な個性を、そのまま映画の中で現出させてしまう、岩井俊二っぽい“あざとさ”。ルー大柴主演のバラエティーのタイトルが『サルとルー』というのは、あまりに直球すぎて笑ってしまった。
でも一番笑えるのは、やっぱ鈴木杏の泣き顔だろ。映画のパンフレットでラーメンズの片桐仁も言ってたけど、あの執拗なまでのアップはすごい。少女漫画だったら「うえーん」という吹き出しひとつで済むんだが、これは実写な訳で、その異様な質感が例えようもなくコメディー。
これが蒼井優だったら自然に流れていくんだが、鈴木杏という女優が「上手い」というよりは「巧い」とカテゴライズすべき女優だから、どっか引っかかりがあって妙な笑いに転化してしまうのかもしれない。岩井俊二がそこまで計算していたかは謎だが。
スウィート&ビターな少女たちの成長物語は、完全にオトコの視点から撮られたファンタジーである。少女たちへの盲目的なイノセンス信仰が結実した、非肉感的青春映画。今時の女の子がオヤジにむかって「愛している」とか言うかー!?という突っ込みは無意味である。
これは伝統的な少女漫画のフォーマットを換骨奪脂した、フィクションなのだから。
- 製作年/2004年
- 製作国/日本
- 上映時間/135分
- 監督/岩井俊二
- 脚本/岩井俊二
- プロデューサー/岩井俊二
- 美術/種田陽平
- 撮影/角田真一
- アソシエイトプロデューサー/前田浩子
- ラインプロデューサー/中山賢一
- 照明/ 樋浦雅紀、中須岳士
- 録音/益子宏明、岸直隆
- 鈴木杏
- 蒼井優
- 郭智博
- 相田翔子
- 阿部寛
- 平泉成
- 木村多江
- 大沢たかお
- 広末涼子
- ルー大柴
- アジャ・コング
- 伊藤歩
- テリー伊藤
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