Waltz For Debby/Bill Evans

WALTZ FOR DEBBY

会社が昼休みになると、僕はひとり飯倉片町の坂をゆるやかに下っていって、麻布図書館に駆け込む。

ここで手頃な本を2~3冊借りて、その近くのカフェでちょっとヘビーなくらい量の多いサーモンのクリームソース・スパゲティーを食べながら、ぺらぺらと本のページを捲るのが日課である。

そのカフェでは、常にモダン・ジャズが流れていた。それまでジャズのことなんぞ何ひとつ知らなかった僕は、それを単なるBGM、単なる空気振動として捉えていた。

ある日、たまたま村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいると、「村上春樹の作品を読む」という行為が「ジャズを聴く」という行為と著しいシナジー効果を生み、まるで雷に撃たれたかのごとく、突然「自分はジャズを聴かなければならぬ」という使命感に襲われたのである。

ダンス・ダンス・ダンス

村上春樹のテキストが触媒となって、音楽との邂逅を導いたのだ。その日から僕は、ジャズの名盤と呼ばれるものを片っ端から聴き漁った。

マイルス・デイビスの『Kind of Blue』(1959)、ジョン・コルトレーンの『Ballads』(1963)、ソニー・クラークの『Cool Struttin’』(1958)、キャノンボール・アダレイの『Somethin’ Else』(1958)…。そのなかでも特に僕が感銘を受け、繰り返し繰り返し聴いたアルバムが、ビル・エヴァンスの『Waltz For Debby』だった。

こざっぱりとしたスーツに身を包み、フレームの薄い眼鏡をかけ、どこかの大学教授のように神経質そうな表情を浮かべながら鍵盤を操るビル・エヴァンスは、白人ピアニストの最高峰と目されるほどのミュージシャンであったことは、今さら説明の必要もないだろう。

いわゆるリバーサイド四部作のひとつである『Waltz For Debby』は、その中でも特に最高傑作の呼び声も高い、名盤中の名盤である。

ベースのスコット・ラファロ、ドラムスのポール・モチアンを従えた最強のトライアングルはいよいよ円熟味を増し、そのインタープレイは、鋭利な刃物のようにソリッドだ。

村上春樹はその著書『ポートレイト・イン・ジャズ』において、『Waltz For Debby』に関してこのようなコメントを残している。

「そこには理不尽なばかりの発熱がある。世界を熱く恋する心がある。世界を鋭く切り裂く心がある」

ポートレイト・イン・ジャズ (新潮文庫)

そう、クールを装いながらも、このアルバムには慎ましやかにホットな感情で満ちている。

そして、宇宙の深淵に堕ちていくかのような、あるいは深い森にわけいっていくかのような、えも言われぬディープな響きがある。それはあまりに甘く、あまりに苦く、あまりにも“人間的”だ。

ニューヨークの名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」でライヴ録音されたこのアルバムには、グラスが擦れ合う音、観客の話し声、拍手も瞬間密封されている。僕はこの店内のざわめきが好きだ。世界中の人間達と奇跡を共有している気がするからだ。

『Waltz For Debby』の録音からわずか11日後に、25歳の若さでベーシストのスコット・ラファロは交通事故でこの世を去った。なるほど、永遠に続く奇跡などあり得ない。

しかしレコードに針を落とせば、その奇跡に僕たちはいつでも立ち会うことができる。それはとても幸せなことだ。

DATA
  • アーティスト/Bill Evans
  • 発売年/1961年
  • レーベル/Riverside
PLAY LIST
  1. My Foolish Heart
  2. Waltz for Debby [Take 2]
  3. Waltz for Debby [Take 1]
  4. Detour Ahead [Take 2]
  5. Detour Ahead [Take 1]
  6. My Romance [Take 1]
  7. My Romance [Take 2]
  8. Some Other Time
  9. Milestones
  10. Porgy (I Loves You, Porgy)

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