吉田喜重が構想に28年をかけた、愛憎渦巻く復讐劇
エミリー・ブロンテが、1847年に発表した愛憎渦巻く復讐劇『嵐が丘』を元に、吉田喜重が構想に28年かけて撮り上げた作品。
原作ではイギリスのヨークシャー地方を舞台に、すさまじい風が吹きすさぶダイナミックな自然描写を織り込んで、ゴシックロマンな香りを漂わせていたが、今作では日本の鎌倉時代に設定を移し替え、いかにも吉田喜重らしい幽玄的な神話世界を構築している。
しかーし、個人的には『嵐が丘』には不満たらたら。それはナラティヴな主題論としてではなく、よりテクニカルな問題として。
例えばカメラ。富士山中腹の太郎坊付近で撮影された“火山地帯”のロケ場面は、荒涼たる原野が鮮烈にビジュアライズされていて素晴らしいのだが、山を下った宿場町のシーンになると、いきなり画調が激変して、セット丸出しなチープ感が漂ってくる。
粗末なセットであることが露呈することを恐れたのか、ロングショットが一度もインサートされていないのが不思議。
天界と下界とのコントラストを強調したかったのかどうか理由は謎だが、ここまでルックが統一されてないのはいかがなものか。カットとカットの繋ぎもシームレスに連結されておらず、編集的なリズムが妙にぎごちない。
序盤のほうで、三國連太郎演じる高丸が上座で絹と話していると、次のカットで下人の男に少年時代の鬼丸がひっぱたれているシーンがあるのだが、これがどーにも不自然。例えばパシーン!という音が聞こえて、三國連太郎がその方向に目をやると鬼丸がひっぱたれている、というような音によるモンタージュで繋いだほうが自然だと思うんだが。
さらにいえば、独特のタイム感を醸し出したかったからか、秒単位のビミョーなジャンプカットを多用しており、これまた映画のリズムに乗り切れない要因になっている。
例えば、西の荘で野盗を松田優作が鬼神のごとく斬りまくるシーン。松田優作が姿を現したかと思うと、次には酒を呑み干すカットに繋がるんだが、その中間に存在すべき「畏れおののく野盗たちを背に、威風堂々とその場にある酒に手を伸ばし、豪快に呑み干そうとするカット」がごっそり欠落している。この唐突なジャンプカットは何なんだろうか。
映画を“時間と空間との戯れ”とするなら、吉田喜重は確かにこの映画で戯れまくっている。しかしそれは鈴木清順のごとくアナーキーな、映画文法を解体する大胆な試みではなく、単に時間的・空間的に欠落している部分を観客に「読め」と期待しているだけのように思えてしまう。それって観客のリテラシーに依存しすぎなんじゃないか。
しかしまあ最大の問題は、“この世で最も愛した女の娘”という重要な役所を演じるのが、高部知子というキャスティングでしょうか。
元欽どこファミリー(後にニャンニャン事件で干されてしまいましたが)にファム・ファタール的役割を担わせるのは、あまりにも役不足すぎ。僕が松田優作の立場なら、「お前が絹の娘だと!?笑止!!」と一刀両断で斬り捨てます。
- 製作年/1988年
- 製作国/日本
- 上映時間/143分
- 監督/吉田喜重
- 製作/高丘季昭
- プロデューサー/山口一信
- 原作/エミリ・ブロンテ
- 脚本/吉田喜重
- 企画/高丘季昭
- 撮影/林淳一郎
- 音楽/武満徹
- 美術/村木与四郎
- 編集/白江隆夫
- 衣装/山田玲子
- 録音/久保田幸雄
- 照明/島田忠昭
- 松田優作
- 田中裕子
- 名高達郎
- 石田えり
- 萩原流行
- 伊東景衣子
- 志垣太郎
- 今福将雄
- 高部知子
- 古尾谷雅人
- 三國連太郎
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