『竜馬暗殺』(1974年/黒木和雄)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『竜馬暗殺』(1974年)は、黒木和雄監督が幕末の坂本竜馬の最期を通じて、戦後日本が抱え込んだ政治的挫折と理想喪失を重ね合わせた異色の時代劇。連合赤軍事件や安保闘争の余韻が色濃く残る1970年代、革命に敗れた世代の映画人たちは、ゴールデン街での果てなき議論と酔いの夜から“反逆の記録”を立ち上げた。原田芳雄と松田優作が激突し、理念が崩壊した時代に取り残された者たちの孤独と熱情が、竜馬暗殺という歴史の断絶と重なりながらスクリーンに焼き付けられていく。
「ゴールデン街映画」が孕んだ反逆の熱
黒木和雄監督の『竜馬暗殺』(1974年)は、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されるまでの「最後の3日間」を描いた、超異色の時代劇である。
しチョンマゲと刀という時代劇のガワを被ってはいるものの、その中身は1970年代初頭の日本に渦巻いていた「政治へのガッカリ感」や、「社会の疲労骨折」がドロッドロに煮詰まった代物なのだ。
あさま山荘事件からわずか2年。世界を変えてやると息巻いた若者たちが、あろうことか内ゲバで殺し合い、理想が血みどろになってぶっ壊れた時代。
そんな祭りのあとの強烈な挫折感を抱えた映画人たちが、新宿ゴールデン街の薄暗い飲み屋でグダグダと、しかし熱く語り合いながら立ち上げたのが本作だ。
黒木監督自身がこれを「ゴールデン街映画」と呼んだように、酒と激論の果てに生まれたこの映画は、幕末という舞台を借りた「1970年代の自画像」であり、死んでいった革命への痛切なレクイエムなのである。
主演の原田芳雄は、撮影当時33歳。なんと、奇しくも坂本龍馬の享年とドンピシャの同い年だ(運命的すぎやしないか)。
彼が演じる龍馬は、教科書に載っているようなキラキラした英雄でも、理想に燃える好青年でもない。むしろ、時代のほころびを丸ごと背負い込んだような、とてつもなく人間臭い男だ。遠くの未来を見据えるような目をしながらも、腹の底は不吉な予感でパンパンに膨れ上がっている。
黒木監督は驚くべきことに演技指導を一切せず、すべてを役者に丸投げした。その結果、原田芳雄はただ役を演じるのではなく、「龍馬であろうともがく男」の孤独を、画面の中で生々しく体現してみせる。
そして、これが初共演となる松田優作(中岡慎太郎役)とのヒリヒリするようなやり取りは、時にフィクションの枠をブチ破り、カメラ回ってるの忘れてないか?と錯覚させるほどのリアリティが滲み出す。
台本通りにやることをブッ壊し、役者の呼吸だけを信じる。この黒木組の即興演出のおかげで、龍馬は神棚に飾られる神話の住人ではなく、革命という病に取り憑かれた、ひとりの生身の男としてスクリーンに蘇ったのである。
音と身体、炭のように荒れた映像
松村禎三による劇伴は、ラヴェルやストラヴィンスキーの香りが漂うギターの旋律がメイン。これがまた、プンプンに哀愁を漂わせながらも、なぜかやたらとエロティックな匂いを放っているからたまらない。
政治とセックス、理想と肉体、思想と欲望がグチャグチャに交錯するこの映画において、音楽はまさに「死の気配をまとった官能」として機能している。その象徴的存在が、中川梨絵演じる幡だ。
急遽代役で呼ばれた彼女は、なんと現場で食事係も兼任し、撮影の合間にせっせとカレーライスを振る舞っていたという、嘘のような本当の逸話がある。
だが、いざカメラの前に立つと、カレーを作ってくれる優しいお姉さんの面影はゼロ。尋常ではない妖気を全身から立ち昇らせ、龍馬の青臭い理想主義をガリガリと削り取っていく。
彼女の肌、汗ばんだ身体、そして声。そのすべてが、小難しい政治の話なんかぶっ飛ばす勢いで龍馬の身体を激しく揺さぶる。もはや革命とは頭の中の理念などではなく、肉体の生々しい疼きだ。松村の音楽は、そんなエロスを見事に音で描き出し、死へと向かう不気味なダンスのビートを刻んでいく。
そして、撮影監督の田村正毅が捉えたモノクロ・スタンダードの映像がこれまた凄い。まるで消し炭のようにザラッザラに荒れた粒子が、風化していく時代の匂いを画面にガッツリと封じ込めている。
ATG特有の超低予算という縛りの中、撮影のほとんどは世田谷にあった醤油工場の跡地で行われた。しかしこの閉塞感が、逆に息が詰まるような象徴的な密室空間を生み出している。
龍馬、中岡慎太郎、幡、そして土佐の同志たちがスシ詰めになるこの二階の座敷は、いわば思想の墓場であり、世界の終わりを語り合う討論ルーム。カメラはほとんど動かない。その代わり、役者たちの叫びや囁きが、狭い空間をビリビリと震わせる。
ここにあるのは、ド派手な殺陣やスペクタクルではない。重苦しい沈黙の中で「そもそも革命っとはなんぞや?」と問い続ける、息苦しいほどのディスカッション・ドラマである。
ザラザラのモノクロ映像がその問いの重みを下支えし、映像の隙間に男たちの焦りやビビりを容赦なく焼き付けている。全編通して、まるで明日死ぬためのリハーサルを見せられているかのように、空気がヒリヒリと乾ききっているのだ。
ええじゃないか、そして終焉のカーニヴァル
そして映画も終盤に差し掛かると、顔に白粉をベッタリと塗りたくった「ええじゃないか」の群衆が、狂ったように乱舞する圧巻のシーンがやってくる。
ここで黒木監督は歴史の秩序を完全にぶっ壊し、名もなき民衆たちが神様も天皇もまとめてガン無視して踊り狂う、無秩序カーニヴァルを叩きつける。
彼らの白塗りの顔は「死の仮面」だ。その踊りは、もはや世直しでも政治運動でもなんでもない。むしろ意味がないことの意味を高らかに祝福し、世界の崩壊をゲラゲラ笑って受け入れる、ヤケクソの儀式である。
龍馬の死すらも、この巨大なカーニヴァルの一部として飲み込まれ、個人の悲劇は時代のうねりの中で単なる「よくある話」へと消えていくのだ。
黒木監督が見つめていたのは、歴史の教科書に載るような英雄の栄光ではなく、革命のむなしい残響だった。ここで一つの歴史は終わる。だが、終わるということは、同時に新しい何かの始まりでもあるはず。
黒木和雄はこの後も、『祭りの準備』(1975年)や『TOMORROW 明日』(1988年)といった名作たちを通じて、人間のモラルや戦争の記憶とゴリゴリに向き合い続けた。
2006年4月12日、彼は脳梗塞によりこの世を去った(享年75)。しかし、あのザラついたモノクロの粒子に焼き付けられた龍馬のギラついた眼差しは、今もなお革命の残響としてスクリーンの奥底で生々しく息づいている。
- 竜馬暗殺(1974年/日本)
- 祭りの準備(1975年/日本)
- TOMORROW 明日(1988年/日本)
![竜馬暗殺/黒木和雄[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/470-e1622548481428.jpg)