ノルマンディー上陸作戦シーンをスクリーンに再現してしまった、驚異的な映像体験
スティーヴン・スピルバーグは、物語に強度を求めない映画作家だ。というよりも、最初から放棄している。
彼が信じているのは、たぶん映像の強度だけだ。シネマという総合芸術をろ過して抽出するならば、そこに残るのは映画文法のみによって構築された、純然たるイメージのみ。
リュミエール兄弟が100年以上前に開発し、パリの紳士・貴婦人の肝をつぶした「シネマトグラフ」の映像的興奮を、彼は現代に復権させようとしているのだ。
『プライベート・ライアン』(1998年)は驚異的な映像体験である。これは戦争映画ではなく、戦場映画だ。「ママ、ママ」と絶叫し、ちぎれた腕を探して放心状態となり、飛び散る血と臓物をさらして、無数の兵士が命を落としていく。
この阿鼻叫喚を、激しく動き回る望遠の手持ちカメラ、狭いシャッター開角度、レンズに付着する肉片と血糊、そして機銃掃射や迫撃砲の激しい爆音で、スピルバーグは冷徹にスクリーンに映像を焼き付けて行く。
冒頭における24分間のノルマンディー上陸作戦シーンは、後続の戦争映画のルックを劇的に変えてしまった。「あとは臭いさえあれば、これは本物の戦争だ」と戦争経験者が語ったというのも、さもありなん。
かつてスピルバーグは『シンドラーのリスト』(1993年)で、戦争の愚かしさをテマティック(主題論)に語り上げた。しかしながら『プライベート・ライアン』では、文字通り観客を戦争最前線に放り投げることによって、メカニカルに戦争そのものを提示してしまったのだ。だが、この映画からは不思議なくらいに掲げるべきテーマが立ち上ってこない。
ミラー大尉(トム・ハンクス)率いる部隊に「戦争で3人の兄を失った末弟のジェームズ・ライアン2等兵を探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ」という命令が下される。ライアン2等兵を救出すべく敵地の前線に向かうが、一人、また一人と犠牲者が続出。
やがて、なぜ彼1人のために部隊全員が命をかけなければならないのか?という疑問が部隊から噴出…。この基本プロットから読み取れるのは、「人間の生命とは等価値ではないのか?」という根源的な問いである。
この問いに対して物語が指し示すのは、あまりにも感傷的すぎる回答。スピルバーグが時折陥ってしまう「過剰なセンチメンタリズム」に、間違いなく『プライベート・ライアン』も陥っている。こんなアンバランスな映画が他にあるのか?っていうくらいに、物語の強度は凄まじく低く、映像の強度は凄まじく高い。
だが、そんなことはどーでもいい!!!!あの蓮實重彦さえ、
評価を超えて私が(スピルバーグ作品で)一番好きなのは、『プライベート・ライアン』なのです。しかし私たちは、この映画を好きになっていいんでしょうか?(笑)
と自虐的に語っている。僕もまた蓮實重彦と同じく、この異形の映画をこれからも偏愛し続けることだろう。
- 原題/Saving Private Ryan
- 製作年/1998年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/170分
- 監督/スティーヴン・スピルバーグ
- 製作/スティーヴン・スピルバーグ、イアン・ブライス、マーク・ゴードン、ゲイリー・レヴィンソン
- 脚本/ロバート・ロダット
- 撮影/ヤヌス・カミンスキー
- 音楽/ジョン・ウィリアムス
- 美術/トーマス・イー・サンダース
- 編集/マイケル・カーン
- 衣装/ジョアンナ・ジョンストン
- トム・ハンクス
- トム・サイズモア
- エドワード・バーンズ
- バリー・ペッパー
- アダム・ゴールドバーグ
- ヴィン・ディーゼル
- ジョヴァンニ・リビジ
- ジェレミー・デイヴィス
- マット・デイモン
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