『TAKESHIS'』(2005年/北野武)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『TAKESHI’S』(2005年)は、ビートたけし監督が自らをモチーフに、“ビートたけし”と“北野武”という二重の人格を描いた異色作。売れっ子俳優として成功する男と、コンビニ店員として日々を過ごすもう一人の自分。夢と現実、映画と日常が交錯する中で、銃を手にした瞬間、虚構のバランスは崩れ、暴力と幻覚が入り混じる迷宮へと変貌していく。
『ドッグヴィル』と通底する権力構造
『TAKESHI’S』(2005年)を観終わったあと、僕の脳裏にまず浮かんだのはラース・フォン・トリアーの怪作『ドッグヴィル』(2003年)だった。
『ドッグヴィル』の終盤、マフィアの首領を演じるジェームズ・カーンが、娘のニコール・キッドマンに向かって冷徹に言い放つ、「力は行使されるべきものだ」というセリフ。
圧倒的なパワーを持つ者が、手の中にあるその力をあえて行使しないことは、善行でもなんでもない。それは欺瞞であり、底なしの傲慢ですらある!という苛烈な言葉だ。
この言葉はそのまま、北野武という一個人が抱え、そして本作でぶちまけた内面的問題に一直線に直結しているのだ!
そもそも、映画を撮るということは「見たいものだけを見せ、見せたくないものをフレームの外へ消す」という特権的な選択の連続。その選択を実行するための時間、莫大な資金、そして他人の身体を束ねる権利=資本が裏打ちしている。
だから妄想の可視化は、単なるアイデアの純度には還元できない。キャスティングで誰を呼ぶか、清純派女優の京野ことみにどこまでやらせるか、ゾマホンをどうイジるか。そのすべてが、「誰の妄想が世界の標準になるのか」を決める強烈な政治であり、暴力なのだ。
北野武の場合、監督=設計者と、俳優=担い手が、同一の身体の中に完全に収斂している。妄想の絶対的な発注者と、その実演者が一致することで、力の行使とその責任の回路は完全に閉じ、誰かのせいにする免責の逃げ道は完全に塞がれてしまう。
だから『TAKESHI’S』では、可視化の権力を使わないことでインテリぶるのではなく、「巨大な力を使ってしまった後に、自分は何を引き受けるべきなのか」を真正面から問う。
銃を手にした瞬間、売れない役者の北野武は「力を行使する者」へと変貌し、やがて大スターであるビートたけしを蜂の巣にして刺殺する。そこにあるのは、スターであることから絶対に逃れられない自分自身への自覚的な苛立ちであり、血まみれの自己破壊的カタルシスなのだ。
フェリーニとゴダールを超えて
大スターとしての“ビートたけし”と、しがないコンビニ店員の“北野武”。この二重構造は、映画史に連なる自己言及的フィルムの偉大な系譜に確実に連なっている。
ここで想起されるのは、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』(1963年)や、ジャン=リュック・ゴダール監督の『軽蔑』(1963年)といったマスターピースだ。
『8 1/2』は、スランプに陥った映画監督グイドの内的分裂を〈夢・回想・妄想〉の流動体としてグルグルと循環させ、最後はサーカスの輪の中にすべての登場人物を呼び入れる巨大な円環へと美しく昇華していた。
一方『軽蔑』は、映画産業の権力関係を夫婦の感情破綻に転写し、資本の命令と芸術の自尊のあいだに走る断層を冷徹に固定する、断絶の映画だった。
だが、『TAKESHI’S』は、この二つの歴史的モードを踏み台にしつつ、さらにブッ飛んだ第三の解答を観客に提示する。つまり、フェリーニ的な“優しい円環”でも、ゴダール的な“クールな断絶”でもなく、同一身体内での徹底的な処断である!
本作の元々の仮タイトルが『フラクタル』(自己相似性)だったことが示すように、この映画は夢と現実が複雑に入れ子構造になっている。だが、北野武はその構造を夢や象徴のレベルで曖昧に融解させもせず、外部の産業力学への批判に逃げることもしない。代わりに、無名の“北野武”は銃という圧倒的な行為能力を獲得し、“ビートたけし”を物理的に殺害するのだ。
ここではフェリーニ的な共存の祝祭は絶対に起きない。円環と断絶を暴力的に飲み込んだ末に、作者は自らの偶像を、自分の手で処刑する。フェリーニは分裂を“踊り”で和解させ、ゴダールは分裂を“距離”で確定させたのに対し、北野は分裂を“殺人”で強引に終わらせるのだ。
円環/断絶/処断という三つのモードの中で、『TAKESHI’S』はもっとも苛烈に、作者が持つ力の行使とその責任を一身に引き受ける道を選んだ。
だから観客の手に残るのは、スッキリとした了解でもインテリぶった安堵でもなく、行使のあとにしか残らないドス黒い後味と、刺殺の残響だけなのである!
「キタノの穴」を調律する岸本加世子
このブッ飛んだ迷宮の中で、映画が崩壊するのを食い止めている絶対的存在がいる。常に北野武の行動に茶々を入れ、執拗に妨害する謎の女を演じる、岸本加世子である。彼女こそが、“力を行使する者=ビートたけし”と“力を行使される者=北野武”の共存を可能にする、最強のバランサーなのだ。
この強烈な横槍には、北野が長く身を置き、頂点を極めたボケとツッコミ)が完璧に埋め込まれている。逸脱=ボケ(恣意的な越境)として暴走する北野に対し、岸本は規範=ツッコミ(秩序の呼び戻し)として即座に反応する。
しかし、彼女のツッコミは相手を論破し屈服させるためではない。過剰な力が破局へと直進する軌道をわずかに曲げ、狂った両人格がギリギリで共存できる振幅に調律するためのものだ。彼女は笑いのための単なるブレーキではなく、破局回避のためのメトロノームとして機能しているのである。
かつて『ソナチネ』(1993年)や『HANA-BI』(1997年)における北野映画の暴力は、しばしば決断のショートカットとして美しく提示されていた。引き金を引けば、面倒な現実は一気に収束する。
だが『TAKESHI’S』で岸本が果たす役目は、その美しいショートカットを、あえて泥臭い遠回りに変えることにある。
彼女が無言のうちに回路へ抵抗を挿入し、即時性を遅延させることで、行使の前後に横たわる責任や後味が観客に見えるようになる。彼女の存在が、欲望の速度を倫理の速度へと変換し、映画を“撃つ快楽の記録”から“引き受けの記録”へと転調させているのだ。
さらに言えば、岸本加世子はスクリーンを見つめる我々観客の代理人でもある。彼女が眉をひそめ、茶々を入れる瞬間、私たちの胸中にある「ちょ、待てよ」という戸惑いがスクリーン上で言語化される。
この同調が生まれることで、観客は安全な客席でポップコーンを食う消費者の無邪気さから引き剥がされ、暴力の享受者としての共犯性を否応なく自覚させられるのだ。
もし彼女が不在なら、『TAKESHI’S』は北野武の単なる願望充足のマスターベーションか、意味不明な自己破壊の一撃で終わっていただろう。スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴』(1999年)ならぬ、逃げ場のない「キタノの穴」。
ここに親切な伏線回収や、分かりやすい難解さは存在しない。あるのは、天才が自らの脳髄をぶちまけ、「虚構と現実の狭間」に観客を道連れにするという、極めて誠実で凶暴な映像体験だけだ。
- キッズ・リターン(1996年/日本)
- HANA-BI(1998年/日本)
- Dolls ドールズ(2002年/日本)
- 座頭市(2003年/日本)
- TAKESHIS'(2005年/日本)
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