『第9地区』──差別と変容のドキュメント
『第9地区(District 9)』(2009年)は、ニール・ブロムカンプ監督が南アフリカ・ヨハネスブルグを舞台に描いたSF社会派ドラマである。ピーター・ジャクソン製作の下、エイリアン難民が隔離地区に収容されるという設定を通じて、アパルトヘイトの記憶と差別の構造を寓話化。主役ヴィカスが異星人化していく過程をドキュメンタリー風の手法で描き、リアリズムとSFの融合で高い評価を得た。第82回アカデミー賞で作品賞ほか4部門にノミネートされた。
視点の反転──“外部からの内部”を描くということ
森達也のドキュメンタリー『A』(1998年)が優れていたのは、オウム真理教を「悪」と断定する社会的視線を逆転させ、「オウム内部から見た外部」を提示した点にある。
地下鉄サリン事件直後という、国民的憎悪が極限に達していた時期に、森はカメラを教団内部へと向けた。そこに映るのは、盲目的信者ではなく、当惑する人間の顔だった。『A』は、常識と非常識の境界を撹乱し、観る者を“差別する側”へと転倒させる映画だった。
ニール・ブロムカンプの『第9地区』(2009年)は、この“視点の反転”をSF的形式で継承した作品である。舞台は南アフリカ・ヨハネスブルグ。上空に浮かぶ巨大な宇宙船から降りてきたエビ型エイリアンたちは、難民として「第9地区」に隔離される。貧困と暴力に満ちたスラム街に押し込められた異星人たちの姿は、アパルトヘイトの残滓そのものであり、差別の構造そのものだ。
この物語を“地球外生命体”というフィクションで包みながらも、観客はいつの間にか、差別する側=人間の視線に同化している。ニュース映像風の冒頭、マスコミのインタビュー、監視カメラの映像。
ブロムカンプは、我々がメディアを通して他者を判断する構造そのものを、映画形式として再現してみせる。『A』が現実を通して倫理を問うたように、『第9地区』はSFを通して現実の倫理を再構成するのだ。
アパルトヘイトの記憶──“差別を演じる社会”のシステム
『第9地区』の最も恐ろしい点は、差別が“悪意”ではなく“制度”として描かれることにある。主人公ヴィカスは、エイリアン特別対策局MNUの平凡な職員だ。
彼は善意でエビ型異星人たちを「退去させる」命令に従うが、その手続きはまるで行政事務のように淡々としている。そこには暴力の意識すらない。差別とは、システムが正常に作動している状態に他ならない。
ブロムカンプはこの構造を、リアリズムとモキュメンタリーのハイブリッドで描く。カメラは揺れ、ズームし、証拠映像のように記録する。観客はドキュメントの観察者として“安全地帯”にいるつもりで映画を観る。
だが物語が進むにつれ、ヴィカス自身が感染し、身体が異形へと変化していくとき、視点は反転する。観客は、差別する者から差別される者へと転落するのだ。
この構造は、社会学的にはハンナ・アーレントの「凡庸な悪」に近い。暴力は狂気ではなく、常態の中に潜む。『第9地区』のMNU職員たちは、法と秩序の名の下に暴力を行使しながら、誰ひとり罪悪感を抱かない。そこにあるのは、近代国家の冷ややかな顔である。
ブロムカンプ自身、南アフリカ出身という背景を持つ。アパルトヘイト後の世代に生まれた彼が、政治的メッセージを否定しながらも、歴史の記憶を無意識に織り込むのは必然だった。彼が語らずして提示したのは、「差別する社会の平穏」という恐怖そのものだった。
『第9地区』が卓越しているのは、社会的テーマを“身体の変容”というSF的ヴィジュアルに転化している点だ。ヴィカスは職務中の事故により、異星人のDNAを取り込み、徐々に「エビ化」していく。指先が変形し、肌が爛れ、声が変わる。彼は自らが嫌悪していた存在へと変貌していくのだ。
この変容過程は、クローネンバーグの『ザ・フライ』(1986年)を思わせる。だが、クローネンバーグが“肉体の崩壊”を通じてアイデンティティの崩壊を描いたのに対し、ブロムカンプは“異形化”を通じて倫理の再生を描く。ヴィカスがエイリアンの武器を使える唯一の人間となる瞬間、彼は権力と差別の両側に立つ存在となる。
やがて彼は、捕らえられたエイリアン親子を逃がすため、自らを犠牲にする決断を下す。その姿は、差別構造に抗う英雄ではなく、差別を体験した者だけが持ちうる“赦し”の形だ。
ヴィカスの身体が完全に変異し、最期にスクラップ置き場で花を折る場面は、人間性の最終的な逆説――「人間ではなくなった者だけが、人間の痛みを知る」という命題を提示する。
ブロムカンプはこの過程を、感情の昂揚ではなく冷徹なドキュメンタリー視線で撮る。爆発音よりも呼吸音、アクションよりも沈黙。肉体の変化はホラーではなく、倫理の比喩として機能する。ここにこそ、初監督作とは思えぬ構築力がある。
メディアと物語──“記録”が生むリアリティの罠
『第9地区』の前半は、モキュメンタリーの形式で進行する。ニュース映像、取材記録、企業の資料映像。これは『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)に連なる“疑似ドキュメンタリー的映画文法”の系譜である。
しかしブロムカンプは、途中でその形式を破棄し、第三者視点のドラマへと切り替える。この転調によって、映画はドキュメンタリーの記録性から、人間ドラマの情動へと滑り込む。
この構造の転換こそ、『第9地区』の映画的核心である。メディアの視点を外すことで、観客はようやく「他者を見る目」から「他者を感じる目」へと変わる。記録から経験へ、観察から共感へ。ブロムカンプはドキュメンタリーの客観性を否定することで、逆説的にリアリティを更新したのだ。
それは、森達也が『A』で行った“現実の虚構化”の反転でもある。森が「現実をフィクションのように見せる」ことで真実を暴いたなら、ブロムカンプは「フィクションを現実のように見せる」ことで真実を浮かび上がらせた。どちらの手法も、観客の視点を転倒させることを目的としている。
ブロムカンプは本作を「政治的な映画ではない」と語った。だがその言葉は、政治を超えて人間を描くという宣言でもある。『第9地区』は、差別の構造を糾弾するのではなく、差別を通して人間の可塑性を描いた映画である。
ヴィカスは、差別する側として物語を始め、差別される側として物語を終える。その円環構造は、社会の鏡像として機能する。彼の変容は、観客の倫理の変容そのものだ。スクリーンに映る異形の姿は、実は私たち自身である。
ピーター・ジャクソンの製作という後ろ盾を得て生まれたこの作品は、娯楽と思想が高次で融合した稀有なSF映画だ。ブロムカンプが以後『エリジウム』『チャッピー』と撮り続ける「人間性の再定義」というテーマは、すべてこの原点にある。
グロテスクな肉体変容、ドス黒い血の噴出、爆発音の連続――それらは単なるショック描写ではない。むしろ、差別と暴力が制度に回収される現代社会の現実を、身体のレベルで体感させるための装置だ。
スクリーンの最後に残るのは、変わり果てたヴィカスの姿ではなく、彼が手にした小さな花。差別と暴力の連鎖を断ち切るものがあるとすれば、それは“理解”ではなく“共感”なのだ。『第9地区』は、他者への想像力を取り戻すための寓話である。
- 原題/District 9
- 製作年/2009年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/ 111分
- 監督/ニール・ブロムカンプ
- 製作総指揮/ケン・カミンズ、ビル・ブロック
- 製作/ピーター・ジャクソン、キャロリン・カニンガム
- 脚本/ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル
- 音楽/クリントン・ショーター
- 撮影/トレント・オパロッチ
- 編集/ジュリアン・クラーク
- 音楽/クリントン・ショーター
- 衣装/ディアナ・シリアーズ
- シャールト・コプリー
- デヴィッド・ジェームズ
- ジェイソン・コープ
- ヴァネッサ・ハイウッド
- ナタリー・ボルト
- シルヴァン・ストライク
- ジョン・サムナー
- ウィリアム・アレン・ヤング
- グレッグ・メルヴィル=スミス
- ニック・ブレイク
- ケネス・ンコースィ
