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泥の河/小栗康平

『泥の河』──“子供映画”の皮を被った死と性の叙事詩

『泥の河』(1981年)は、昭和31年の大阪・安治川を舞台に、少年信雄と船上で暮らす姉妹との出会いを描く。戦後の貧困と喪失を背景に、死と性の気配が静かに漂う。父は戦争の影を引きずり、川に生きる人々は汚濁と共に日々を営む。幼い憧憬と終わらない喪失が交錯する、小栗康平の原点ともいえる作品である。

“子供映画”の皮を被った死と性の叙事詩

キネマ旬報ベストテン第1位、日本映画ペンクラブ第1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞、ブルーリボン賞最優秀作品賞。

『泥の河』(1981年)は、当時の映画賞を総なめにした“80年代邦画の金字塔”といっていいだろう。小栗康平の監督デビュー作にして、彼の後年作『死の棘』(1990年)、『眠る男』(1996年)にも通じる静謐な映画言語が、すでに確立している。

だが、物語の題材──「昭和31年、大阪・安治川の河口で暮らす少年と、船上に住む幼い姉妹との交流」──と聞いた瞬間、筆者の食指は動かなかった。

なにせ、僕は子供が嫌いだ。だから子供が主役の映画も嫌いである。しかし、この作品に流れる“水の気配”と“死の気配”には、ただの「少年の成長譚」では片づけられない重層的な深みがある。

物語の冒頭から、“死”は静かにこの映画を支配している。芦屋雁之助演じる馬車屋が登場するや否や命を落とす。ゴカイ採りの老人は川に落ち、父親(田村高廣)は戦争の影を引きずり、「スカみたいにしか生きられない」と嘆く。

彼のかつての恋人は京都の病院で死の床にある。『泥の河』の水面は、まるで彼らの死の記憶を洗い流しながらも、決して浄化されない。そこに漂うのは、戦後という時代が抱える“終わらない喪失”である。

そして“性”もまた、この映画の水脈を形成している。信雄少年は、廓船で客を取る加賀まりこの性愛の光景を覗き見し、銀子(宮崎美子)に淡い憧憬を抱く。

視線が触れるだけで世界が変わってしまうような、幼い感情の震え。小栗はここで“成長”を感傷ではなく、欲望と死の交錯として描く。少年のまなざしは、川面の光のように揺らめきながら、現実の濁流へと飲み込まれていく。

『泥の河』とはつまり、「生と死」「無垢と穢れ」「憧憬と腐敗」が同居する日本的風景の再現であり、そこに小栗康平は“戦後の日本そのもの”を投影しているのだ。

静謐という暴力──小栗康平のリアリズム

しかしながら、この映画に全面的に陶酔することは難しい。スティーヴン・スピルバーグが「子役の演出がワンダフル!」と絶賛したというが、僕には喜一少年のハニカミがどこか作為的に見えてしまう。まあ、僕の見方が斜に構えすぎているだけかもしれないんですが。

銀子お姉ちゃんの演技も一本調子で、人物の感情よりも“型”が先に立つ。田村高廣が二度目の手品を披露する場面では録音がくぐもり、照明は全体的にフラット。映像的な奥行きを抑制するその均質さは、蓮實重彦が指摘した通り、カメラの“冷たさ”として機能している。

ただし、その冷たさこそが小栗康平の映画的本質でもある。彼はドラマの外側にある“沈黙”を描く作家だ。蟹にマッチで火を灯すショットなどは、もっと幻想的に撮れるはずだが、小栗はそれを拒む。

幻想ではなく現実、詩ではなく沈黙。水面の鈍い反射光の中にこそ、生と死の境界がある。『泥の河』の川は流れず、淀む。そこに宿るのは、癒えない記憶と、汚濁を受け入れながら生き延びる者たちの“日常”である。

戦後の子供たち──日本映画が見た無垢の終焉

戦後の日本映画において、子供は未来の象徴ではなく、“過去の亡霊”として描かれてきた。黒澤明の『生きる』におけるブランコの子供たち、木下惠介の『二十四の瞳』の教え子たち──彼らは皆、過去の罪を受け継ぎながら生きる存在だった。

『泥の河』の信雄もまた同じ系譜にある。彼はまだ何者にもなっていないが、すでに“敗戦の記憶”を背負っている。小栗康平は、その沈黙の子供を通して、戦後日本の精神史を描いた。

だからこそこの映画は、美しいだけでなく、息苦しい。少年たちが川岸を駆けるラストシーンで、観客は一瞬の希望を感じながらも、心の底で知っている。あの河は、決して清らかには流れない。

『泥の河』は、子供を描きながら大人の絶望を映す映画である。純粋さを信じることができない時代に、なお無垢を撮ろうとした小栗康平の誠実さと、そこに潜む冷徹さ。その二重性こそが、本作を“戦後日本映画の到達点”たらしめている。

DATA
  • 製作年/1981年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/105分
STAFF
  • 監督/小栗康平
  • 製作/木村元保
  • 原作/宮本輝
  • 脚本/重森孝子
  • 撮影/安藤庄平
  • 照明/島田忠昭
  • 美術/内藤昭
  • 編集/小川信夫
  • 音楽/毛利蔵人
  • 助監督/高司暁
CAST
  • 田村高廣
  • 藤田弓子
  • 朝原靖貴
  • 加賀まりこ
  • 桜井稔
  • 柴田真生子
  • 初音礼子
  • 西山嘉孝
  • 蟹江敬三
  • 殿山泰司
  • 八木昌子
  • 芦屋雁之助