ルール説明だけで終わってしまった、単なるホグワーツ学校案内
「世界観」などという映画を語る上で実に便利な言葉があるが、ファンタジーやSF作品などでは特に重要になってくる。「世界観」とは煎じ詰めれば「ルール説明」であり、我々を空想の世界に導くガイドブックだ。
『ブレードランナー』の冒頭で、相手がレプリカントかどうかを識別するシーンがあるが、テストの内容はやたら動物に関係することばかりだった。
原作によれば、核戦争後は大部分の動物が死に絶えてしまったために、「動物」というキーワードに人類がえらく敏感になってしまった…という伏線が張られている。だが、映画でその説明は一切ナシ。理由は単純明快、単なる「ルール説明」だけで終わってしまい、面白くも何ともないシーンになるからだ。
『ハリー・ポッターと賢者の石』は、いわば壮大なガイドブックである。ファンタジー溢れる世界に慣れ親しむ為に、我々はまず「ホグワーツ魔法学校」だの、「クィディッチ」なるスポーツだの、世界観を構成するキーワードを予習しなくてはならない。本
格的にストーリーが疾走し始めるのは、中盤を過ぎてから。胸踊る冒険物語を期待していたのに、これじゃあ単なる「ホグワーツ学校案内」ではないか。
読み方を変えれば、これは実にアメリカンな’80年代学園スポーツともいえる(ハリー・ポッターはイギリスだけど)。頭が悪くて女にもモテず、まったくサエない主人公がアメフトやら野球やらで天性の素質を開花させ、一躍学園のアイドルになるという物語をフォーマットとして踏襲し、ファンタジーという装いでリサイクルしたのが『ハリー・ポッター』なのだ。この読み慣れたテクストをどう評価するかは難しいところだが。
興味深いのは、倦まずたゆまずの努力よりも、天賦の才能が評価されるシビアな血統主義。偉大な魔法使いの「血」を受け継ぐハリーは、クィディッチというスポーツの花形であるシーカーのポジションを手中におさめ、大会の大活躍で一躍ヒーローとなる。
「努力より才能」ということかどうかは分からないが、ラストでダンブルドア校長が各寮を点数でランク付けする、というのは実に暗示的である(どうでもいいが、一位の寮は最初に発表してあげた方がいいんじゃないか?天国から地獄に突き落とされたスリザリン寮が可哀想すぎ!)。
ルール説明で終わった第一作だっただけに、その真価が問われるのは第二作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』以降になるだろう。意外に厳しかったりする現実的な血統主義という命題がどう変容していくのか、個人的にはとても興味があります。
- 原題/Harry Potter And the Philosopher’s Stone
- 製作年/2001年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/152分
- 監督/クリス・コロンバス
- 脚本/スティーブ・クローブス
- 製作/デイヴィド・ヘイマン
- 原作/ジェイ・K・ローリング
- 撮影/ジョン・シール
- 音楽/ジョン・ウィリアムズ
- 美術/スチュアート・クレイグ
- 編集/リチャード・フランシス・ブルース
- ダニエル・ラドクリフ
- ルパート・グリント
- エマ・ワトソン
- マギー・スミス
- ロビー・コルトレーン
- リチャード・ハリス
- イアン・ハート
- ジョン・ハート
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