ファーゴという町そのものをフォーカスした、底意地悪いブラック・コメディー
今作の舞台となるノースダコタ州ファーゴは、喧騒渦巻く「世界」の外側に位置し、ひっそりと隔たった場所に佇む、閉ざされた空間である。たとえば主人公である女性警察署長は、凶悪犯を護送中にこんなセリフをつぶやく。
なぜ、こんな事をしたの?私には理解できない…こんなにいい天気なのに
このセリフからは、「人間は本質的に分かり合えるものであり、自分の価値観はコモン・センスとして他人も共有できる」という能天気な性善説が読み取れる。
「Yeah?」
「Yeah」
「Oh,Yeah?」
「Yeah!」
町の人間の会話はこれでオッケー。お互いの波長が合えば、言葉が介在しなくても気持ちは伝わってしまうんである。いやーまさに“人類皆兄弟”状態。
陰惨で殺伐とした世界がデフォルトになりつつある現在、受動的な平和を享受している町・ファーゴはおそろしく異様な空間である。コーエン兄弟の特徴は、人間の滑稽さを特異なアングルで増幅させ、底意地の悪いブラック・コメディーにブーストしてしまう語りにある。
しかし、この『ファーゴ』(1996年)で彼等がフォーカスしたのは滑稽な人間模様ではなく、ファーゴという町そのものだ。
冴えない中古自動車販売店勤務の男(ウィリアム・H ・メイシー)が、借金を穴埋めする為に妻の偽装誘拐を計画し、資産家の義父に身代金を肩代わりさせて、その身代金を着服しようと企てるというプロット。
「人間はおかしくて、哀しい」という映画のキャッチコピーさながらの、いかにもコーエン兄弟好みの筋立てにもかかわらず、人間そのものへの描写はあくまで冷徹なのだ。
『バートン・フィンク』(1991年)や『未来は今』(1994年)など、過去のフィルモグラフィーでは人間の悲喜劇を描くがための“意地の悪さ”がスパークしていたが、この視点の変換は何なのだろう。
あまりにも冷酷な連続殺人事件の、闇を暴き出すための手段なのか、この距離感がコメディーとして逆に成立するという計算なのか(もしそうだとしたら、それはそれでかなり意地が悪い)。
女傑という言葉がピッタリのフランシス・マクドーマンド(ちなみに彼女、ジョエル・コーエンのホントの奥さんである。よーするに、伊丹十三と宮本信子の関係と一緒である。キャー、やらしー!!)や、肝っ玉の小さい小市民を演じさせたら銀河系一のウィリアム・H ・メイシーなど役者陣はみな好演だが、特にスティーブ・ブシェーミは秀逸。
本編中ずーっと「ヘンな顔」と言われつづけるケッタイな役なんぞ、彼以外のキャスティングは考えられないのではないか。「特にどこがということではなく、全体的にヘンな顔」等というセリフを成立させてしまう我らがブシェーミ、きっとこの役はコーエン兄弟のアテ書きに違いない。
- 原題/Fargo
- 製作年/1996年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/98分
- 監督/ジョエル・コーエン
- 脚本/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
- 製作/イーサン・コーエン
- 製作総指揮/ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー
- 撮影/ロジャー・ディキンス
- 音楽/カーター・バーウェル
- 美術/リック・ヘインリックス
- 編集/ロデリック・ジェインズ
- フランシス・マクドーマンド
- スティーブ・ブシェーミ
- ウィリアム・H ・メイシー
- ピーター・ストーメア
- ハーヴ・プレスネル
- ジョン・キャロル・リンチ
- クリスティン・ルドリュード
- ブルース・キャンベル
最近のコメント