『突然炎のごとく』──ジャンヌ・モローが変えた“愛の均衡”の行方
『突然炎のごとく』(1962年)は、フランソワ・トリュフォー監督がアンリ=ピエール・ロシェの小説を原作に、第一次世界大戦前後のフランスを舞台として、ジュール(オスカー・ウェルナー)、ジム(アンリ・セール)、カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)の三人が築く長期的な関係の変化を描いた作品。ドイツ人のジュールとフランス人のジムは文芸やスポーツを通じて友情を深め、のちに出会う女性カトリーヌに惹かれていく。ジュールはカトリーヌと結婚し家庭を築くが、戦争後に三人が再会すると、彼らの間にはかつての均衡が戻らず、生活の場や立場が揺らぎ始める。
質量が重いヌーヴェルヴァーグ映画
僕のヌーヴェルヴァーグ映画、特に60年代作品に対するイメージは、たった一言「質量が軽い」に尽きる。
ジャン・リュック・ゴダール監督の『はなればなれに』(1964年)、エリック・ロメール監督の『獅子座』(1962年)、ジャック・リヴェット
監督の『パリはわれらのもの』(1961年)、ジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)、クロード・シャブロル監督の『いとこ同志』(1959年)etc。
ストーリーは軽やかで、音楽は跳ねて、人物たちの振る舞いもふわりと宙を滑る。不可解な恋愛関係を描いても、政治的スローガンで世界を叫んでも、映像の圧縮率が異常に高いせいか、どこか“無重力”の世界で漂っているように見える。
編集の断絶、関係性の薄さ、身体の浮遊、政治や恋愛の記号化、ショットの軽度の無責任さが、我々の心を心地よく解き放ってくれるのだ。あらゆる映画的制約から解放された連続的なイメージたちは、重力を失ってふわふわと漂う。
僕が観てきたヌーヴェルヴァーグ作品は、どれも例外なくこの“軽さ”をまとっていた…ただし、トリュフォーの『突然炎のごとく』(1962年)を除いて。
なぜ『突然炎のごとく』だけが“軽くない”のか。それは物語の三角関係が古典的だからでも、トリュフォーの演出が重厚だからでもない。ただただ、ヒロインのカトリーヌを演じたジャンヌ・モローがとてつもなく“重い”からである。
ジャンヌ・モローがもたらす“生理としての重さ”
劇中のジュールは「決して美しいわけではないが、彼女は女だ」と語る。僕はジャンヌ・モローに恋をするタイプではないが、それでもこの言葉には半分賛成せざるを得ない。彼女の存在は、“ヒロイン像”を演じる以前に、生理そのものとしての女をスクリーンに刻み込んでしまうからだ。
当時のヌーヴェルヴァーグにおいて、奔放でつかまえどころのないヒロインはたいてい記号的に扱われていた。しかしジャンヌ・モローがその役を引き受けると、記号は一瞬で溶け落ち、代わりに“どうしようもなく生々しい女の感覚”が立ち上がる。
男装して髭を描く、陸橋の上を三人で駆けっこする。これらのシーンは、もしジーン・セバーグが演じていたら軽やかなファム・ファタールとして成立したはずだ。
しかしジャンヌ・モローが演じると、そこには説明のつかない体温が宿り、軽さを拒む磁場が生まれる。ここには、ジーン・セバーグが『勝手にしやがれ』(1960年)で示したような“軽やかな破壊力”とは別種の質量があるのだ。
セバーグの奔放さはジャンルの内部で成立する“映画的自由”だが、ジャンヌ・モローの奔放さはもっと根源的で、身体そのものの重たさを伴う。彼女が男装して髭を描くとき、その行為は可愛らしい変装の枠に収まらず、“性と身体の境界線を逸脱しようとする衝動”として現れる。
カトリーヌは理屈で動かない。だが、衝動として説明できるほど単純でもない。その中間領域──意識よりも先に身体が動いてしまうゾーンに留まっている。
ヌーヴェルヴァーグ的軽さは、人物が“記号のように軽く動く”ことで成立するが、カトリーヌはその軽さを許さない。彼女の行動は、常に重力を伴う。愛する、裏切る、試す、奔る。それらすべてが“意味”によって整理される前に、身体の質感としてスクリーンに立ち上がる。
トリュフォーは、カトリーヌを心理で語ろうとしない。彼が描くのは一貫して“不可解さ”だが、その不可解さは、観念的な謎めきではなく、“人間の身体が持つ説明不能な方向性”として表れる。
だからこそ彼女は悲劇的でもあり、同時に悲劇を成立させない。カトリーヌが引き起こす出来事はドラマの枠をはみ出し、人物関係を攪乱し、物語の重心をずらしつづける。三角関係という枠組みは、彼女の生理的行動の前ではメタファーにすぎず、むしろ登場人物たちが耐え続ける“重力”として存在する。
悲劇ではなく“バランス”としての重さ
『突然炎のごとく』は悲劇のプロットを持っているが、悲劇として胸を掻きむしるような感情を要求してこない。カトリーヌとジュールが非業の死を遂げたあとでさえ、ジムの表情には奇妙な安堵が漂う。
それは単なるショックや喪失ではなく、自分が支えてきた奇妙な均衡がようやく終わったことへの解放のように見える。その解放感は、“破局=悲劇”という映画的常識の外側にある。
この均衡の終焉がもたらす安堵という構造は、他の三角関係を扱った映画を参照すると、より鮮明に浮かび上がる。たとえばミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960年)では、二人の男と一人の女という構図こそ表面的には三角関係だが、その関係の重心はつねに不在の女アンナに向けられている。
彼女の失踪をきっかけに、主人公たちは“関係の重さ”をどこに置くべきかわからず漂い続ける。均衡が成立しないまま物語が進行するため、終盤の感情は凝固し、悲劇性は生まれない。構造そのものが悲劇を拒んでしまうのだ。
一方で、ベルイマンの『夏の遊び』(1951年)やヴィスコンティの『旅情の終り』(1943年)のように、三角関係のどこかの軸が過剰に重くなりすぎると、映画は一気に重力を帯びる。
悲劇とは、関係の偏りが決定した瞬間に発生する。どちらの作品も、関係の一点が突出し、他のふたつがそれを支えきれずに崩壊していく。その崩壊が悲劇の磁場をつくる。
では、『突然炎のごとく』はどうか。ここでは、三者がつねに不安定な状態のまま、互いの位置を調整し続ける。ジュールは献身的でありながら執着しきれず、ジムは情熱的でありながら踏みきれず、カトリーヌは二人の均衡を破壊しながらも、その破壊自体を関係の維持装置としてしまう。
言い換えれば、三角形はつねに崩れそうで崩れない状態に置かれている。そしてついにカトリーヌとジュールが死ぬ──そこでようやく三角形は終わる。しかし終わりは悲劇的な崩壊ではなく、均衡そのものの停止という形で訪れる。
ジャン・ルノワールの『恋多き女』(1958年)を思い出してみよう。あの作品では、三角関係の内部に情念の重心が一方的に傾き、ついに破滅を引き寄せる。重さは人物ではなく関係の偏りに宿る。
ところが『突然炎のごとく』では、重さはカトリーヌという“人物”の側に発生し、それが三角形全体の均衡をつくり出す。重心は偏らない。三角形は歪でありながら、びっくりするほど安定している。だからこそ、物語の終わりは悲劇的破局ではなく、“長く続いた均衡の終わり”として響く。
悲劇の痛みよりも、どこか安堵に近い感情を観客へ与える。この不思議な中間値は、他のヌーヴェルヴァーグ作品には存在しない。軽くない。でも、重くもしない。その絶妙なバランスを成立させるために、ジャンヌ・モローという巨大な重石が必要だったのだと思う。
ヌーヴェルヴァーグの軽さを成立させていたのは、構造の自由さや社会性ではなく、“登場人物の生の質量”だった。そしてその質量を最も重く、最も露骨にスクリーンへ持ち込んだのがジャンヌ・モローであり、それゆえに『突然炎のごとく』だけはヌーヴェルヴァーグの無重力空間から逸脱している。
軽やかさを捨てたのではなく、軽やかさの底に重力を仕込んだ作品。それが『突然炎のごとく』なのだ。
- 原題/Jules Et Jim
- 製作年/1962年
- 製作国/フランス
- 上映時間/107分
- 監督/フランソワ・トリュフォー
- 脚本/フランソワ・トリュフォー
- 製作/マルセル・ベルベール
- 原作/アンリ・ピエール・ロシェ
- 脚本/ジャン・グリュオー
- 撮影/ラウール・クタール
- 音楽/ジョルジュ・ドルリュー
- ジャンヌ・モロー
- オスカー・ウェルナー
- アンリ・セール
- マリー・デュボア
- ヴァンナ・ユルビノ
- サビーヌ・オードパン
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