【ネタバレ】『マン・オブ・スティール』(2013)
映画考察・解説・レビュー
『マン・オブ・スティール』(原題:Man of Steel/2013年)は、クリストファー・ノーラン製作、ザック・スナイダー監督が新たに描いたスーパーマン誕生譚。滅びゆく惑星クリプトンから地球へ送り出されたカール=エルは、クラーク・ケントとして成長する中で、自分が持つ力の意味と向き合いながら使命を模索していく。謎めいた過去と地球での生活の狭間で揺れつつ、やがて迫りくる脅威に立ち向かうため、自らの出自と運命に正面から向き合うことになる。
クリストファー・ノーランの呪縛
ザック・スナイダー監督によるスーパーマンの完全リブート作『マン・オブ・スティール』(2013年)を観て、心からのカタルシスと希望を感じた人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
断言しよう。本作はスーパーヒーロー映画の歴史において、極めて野心的でありながら、同時にジャンルそのものの存在意義を根底から破壊してしまった、取り扱い注意の劇薬である。
ワーナー・ブラザースは、前作であるブライアン・シンガー監督の『スーパーマン リターンズ』(2006年)が、そのノスタルジックで静謐な作風ゆえにメガヒットに至らなかったことを重く受け止めた。
やがてスタジオは、『ダークナイト』(2008年)で世界中を熱狂させたクリストファー・ノーラン、そして脚本家デヴィッド・S・ゴイヤーのコンビに、栄光のシリーズを委任する。
バットマンで大成功を収めた、徹底的なリアリズムとダークな内省という最強方程式を、そっくりそのままスーパーマンの世界に移植しようと試みたのだ。
だが、ちょっと待て。その戦略は、根本的に誤っている。ノーランが構築したあのヒリヒリするようなリアリズムは、もともと「両親を殺されたトラウマを抱え、コスプレをして夜の街を徘徊する大富豪」という、脆弱性と狂気を内包した人間的ヒーローだからこそ機能した。
対するスーパーマンはどうだ。彼はリチャード・ドナー版『スーパーマン』(1978年)が完璧に定義づけたように、冷戦期のアメリカ的理想である「正義、秩序、家族、信仰」を体現する、完全無欠で超越的な、神話的・寓話的存在。
両者を同一の文法で描こうとした時点で、スーパーマンが本来持っているはずの神話的な重力と多幸感は、完全に雲散霧消してしまう。
『マン・オブ・スティール』の全編に漂う、どこか息苦しくてノリ切れない違和感の正体は、素材と調理法の決定的な構造的齟齬が露呈した結果なのだ。
9.11のトラウマと、街を更地にする迷惑な救世主
この映画が我々に見せつけるのは、人類を導く神々しい救世主の誕生譚などではなく、フリーターとして漁船やダイナーを転々とする、33歳の自分探し。
ヒーロー映画としての最大の核心であるはずの共同体の救済や、絶対的な倫理的信頼は意図的に解体され、クラーク・ケントはもはや神ではなく、自分のパワーを持て余してウジウジ悩む、迷える青年として処理されてしまう。
なぜ彼らはスーパーマンをここまで矮小化してしまったのか。この構図の裏側には、9.11同時多発テロ以降のアメリカ社会が抱え込んだ、修復不可能な精神的動揺とパラノイアがべったりと結びついている。
9.11という現実は、アメリカという超大国そのものが無敵の正義のヒーローなどではないことを、あまりにも残酷な形で全世界に突きつけた。
その結果、アメリカのヒーロー映画はかつてのような無邪気な救済の神話を紡ぐ力を失い、「誰も信じられない、ヒーローの存在自体が脅威となる時代の自己検証」へと決定的に変質していく。
その病理が最も最悪な形で爆発するのが、映画の後半40分間に及ぶ、ゾッド将軍たちクリプトン星人との死闘である。彼らがメトロポリスのビル群を超音速で突き抜け、熱線で薙ぎ払い、文字通り街を更地にしていく破壊描写は、ほとんど怪獣映画。
『マン・オブ・スティール』におけるスーパーマンは、人類を導く希望の光などではなく、制御不能な大量破壊兵器への恐怖の象徴に成り下がっている。
人々は歓声と拍手ではなく、怯えた目と警戒をもって彼を見上げるしかない。街を守るための戦いが、都市を壊滅させる巨大な破壊行為として描かれ、数万人規模の市民が瓦礫の下敷きになっていることは想像に難くない。
そもそもヒーロー映画の社会的機能とは、共同体が抱える不安や矛盾を、寓話の枠内で安全に処理することにあったはず。だが、スナイダーとノーランは、9.11のテロや監視国家の恐怖といった現実的リアリティを過剰に反映するあまり、ヒーローを“救済の寓話”ではなく、“現実の不安を何倍にも増幅させる装置”として機能させてしまった。
話を捨ててただの暴力スペクタクルへと転落した瞬間の、なんと空虚なことか。
神話の解体か、創作者の自己不信か
スーパーマンという絶対的アイコンの象徴性を徹底的に削ぎ落としていく細部の演出にも、現代ハリウッドの極めて冷笑的なアイロニーが滲み出ている。
胸の巨大な「S」マークを、単なるアルファベットではなくクリプトン星の言葉で「希望」の意味だとわざわざ再定義し、ダサいと嘲笑されがちな赤パンツをデザインから排除。
カラーグレーディングで、画面全体から鮮やかな赤と青の彩度を奪い去り、あろうことか劇中では「スーパーマン」という呼称すら極力避けようとする。
これらは、単なる現代風のスタイリッシュなデザイン変更などではない。スーパーマンに対する、制作者側の強烈な自己不信の表明そのものだ。
彼ら自身が、かつてのヒーロー神話を時代遅れの産物と見なし、シリアスな再解釈の皮を被って題材から距離を取ろうと逃げ腰になっているのだ。
題材の神話性を信じ切れていない創作者が、スクリーンを通して観客に「希望を信じろ」と促すことなど、絶対に不可能。サッパリ分からん、一体誰に向けてこの映画を作ったんだ?
『スーパーマン リターンズ』のブライアン・シンガーは、「アメリカが善なる超大国のアイデンティティを失い、もはや世界はスーパーマンを必要としていないのではないか」という、根源的な問いから逃げなかった。
彼はその神話的時代錯誤を自覚的に扱いながらも、ヒーローが必要とされない世界で、それでもなお痛みを伴いながらヒーローであり続ける意味を、誠実な眼差しで探求したのである。
一方の『マン・オブ・スティール』はどうだ。彼らはポスト9.11的なリアリズムという魔力に囚われるあまり、神話を解体し、放棄することで手っ取り早く現代の空気に適応しようとした。
結果としてそこに残ったのは、スーパーヒーロー映画の派手なガワを被りながら、本質的な意味での“ヒーローが完全に不在”の物語である。
ヒーロー映画とは、共同体が自らの不安を象徴的に克服し、明日を生きるためのモラルを共有する、巨大な社会的装置だ。だからこそ、観客が心の底で求めているのは、惨惨たる現実への安易な迎合ではなく、何度でも力強く立ち上がる神話の再構築なのである。
『マン・オブ・スティール』が我々に突きつけたのは、神話という輝かしい嘘を信じられなくなった現代人の哀しき魂の風景であり、そこにこそ、現実主義に毒された21世紀的ヒーロー映画の限界点が、最も残酷な形で露呈しているのだ。
- 原題/Man of Steel
- 製作年/2013年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/143分
- 監督/ザック・スナイダー
- 脚本/デヴィッド・S・ゴイヤー
- 製作/チャールズ・ローヴェン
- 撮影/アミール・モクリ
- 音楽/ハンス・ジマー
- 編集/デヴィッド・ブレナー
- 美術/アレックス・マクダウェル
- 衣装/ジェームズ・アシェソン、マイケル・ウィルキンソン
- マン・オブ・スティール(2013年/アメリカ)
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