“ひっかかりの無さ”を愛でるべき、春の木漏れ日のようなほんわかデイズ
この“ひっかかりの無さ”は何なのだろう。
博士(寺尾聰)とお手伝いさん(深津絵里)とその息子ルート(齋藤隆成)による疑似家族物語は、とことんスガスガしくて、とことん穏やか。まるで打ち立ての蕎麦のように、つるつるっと喉越しよく話が流れていく。いやホント、博士による簡単数学講座のシーンなんて、ほとんどNHK教育みたいなノリですもん。
もちろんそれだけじゃ物語として成立しない訳で、博士と義姉である未亡人(浅丘ルリ子)との間に不義の関係があったことが示唆されたり、所々にひっかかりポイントを設定しているんだが、これがまあストーリーに何の変化も与えない不発弾。春の木漏れ日のような、ほんわかデイズに終始しているのだ。
ハリウッド映画ならば、短期記憶の障害を持った寺尾聰の苦悩によりスポットが置かれるだろうし、キュートすぎるふかっちゃんとのラヴ・アフェアーを濃密に描くことだろう。しかし小泉堯史は物語が予定調和的に進行することを頑なに拒否する。
前向性健忘の哀しみは「僕の記憶は80分しか続かない!」という寺尾聰のストレートすぎる独白に表出されるのみだし、深津絵里は甲斐甲斐しく博士の世話をするだけで、男女の仲には進展せず。
だがこの『博士の愛した数式』は、おそらくこの“ひっかかりの無さ”を愛でるべき映画なのだ。永遠に続くかのような穏やかな時間のなかで、小さな幸せを発見していく物語なのだ。
構造的には、中学校の数学教師になった29歳のルートが、過去を回想するという形式がとられているんだが、逆に言うと正統的な説話法にのっとりすぎていて、ミニマルな映画的愉悦を損なう結果になっている。時間という“線”で区切られているのではなく、瞬間瞬間に訪れる“点”で語られるべき映画。それは映画の主題ともリンクしているはず。
毎朝笑顔でやってくるふかっちゃん、そして毎回のように足のサイズを聞く博士。そんな日常をひたすら点描する映画であったなら、『博士の愛した数式』は希代の傑作になったのかもしれない。
- 製作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/117分
- 監督/小泉堯史
- プロデューサー/荒木美也子、桜井勉
- エグゼクティブプロデューサー/椎名保
- 原作/小川洋子
- 脚本/小泉堯史
- 撮影/上田正治、北澤弘之
- 美術/酒井賢
- 衣装/黒澤和子
- 編集/阿賀英登
- 音楽/加古隆
- 照明/山川英明
- 録音/紅谷愃一
- 寺尾聰
- 深津絵里
- 齋藤隆成
- 井川比佐志
- 頭師佳孝
- 吉岡秀隆
- 浅丘ルリ子
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