生と死の彼岸を描く、冷徹なクリント・イーストウッドの眼差し
長年親交を結んでいる編集者のT氏と食事をしたとき、いつものように映画談義に花が咲き、イーストウッドの直近のフィルモグラフィーの充実ぶりに話が転じ、たまたま最近BSで観た『パーフェクト・ワールド』(1993年)の話題になった。
パタパタとヘリコプターが旋回する音が聞こえる中、ドル札が風に舞い、目をつむって草原に横たわるケビン・コスナーを捉えたオープニング・シーンがいいですよねー、あれってエンディングでケビン・コスナーが射殺されたあとでも、全く同じシーンがインサートされていて、実は眠っていたんではなくて死んでいたことが分かるんですよねー、みたいな話をしたところ、T氏は驚くべき回答をしたんである。
曰く、「ルイさんは、オープニング・シーンですでにケビン・コスナーは死んでいると思ったでしょ?よく観ててください。彼ははっきりと眼を開いている。生きているんですよ」。え、マジか。でも、あの草原に横たわった時点で、ケビン・コスナーはすでに息絶えていたはず。生きてるなんてあり得なくね?
「つまり、死んでいるはずの男が、オープニングでは“生きている”ことが示されている。つまりイーストウッドの映画における復活というモチーフ、不死というモチーフが、イーストウッド自身ではなく、ケビン・コスナーに仮託されているんですよ」
慌てて家に帰って録画していた『パーフェクト・ワールド』を見直したところ、指摘通りケビン・コスナーはしっかりと目を見開いていた。うーむ、さすがT氏!いつもながら、正鵠を射たオピニオンである。
いつだってクリント・イーストウッドが描くのは、正義と悪が共存する世界ではなく、正義と悪が峻別できない世界だった。T氏の主張が正しいとするならば、『パーフェクト・ワールド』では生と死すらも峻別できない世界を描こうとしたのか。
そもそも、この映画におけるパーフェクト・ワールドとは、ブッチの父が1度だけよこした絵葉書に描かれていたアラスカだったはず。しかし、極寒の辺境の地が彼の理想郷だったとは、にわかに信じ難い(事実、アラスカが希望の場所として強烈にイメージングされるシーンはない)。
ブッチは、この世にパーフェクト・ワールドなんぞ存在しないことを、最初から知りすぎるくらいに知っていた。知っていたうえで、逃避行の行き先を“決して辿り着けない場所”アラスカにしたんである。
しかし旅の途中で、彼は警察の銃弾に倒れる。そのまわりには青々とした緑が広がり、一陣の爽やかな風が吹く、どこまでもピースフルな世界が広がっている。そこは現実界ではないし、もちろん死界でもない。生と死の狭間にこそ、彼のパーフェクト・ワールドが横たわっているのだ。
陽光煌めく’60年代のテキサス州を舞台に、映画は驚くほどノホホンとしたタッチで綴られる。芯から心が震えるような、冷え冷えとした希望なき世界を暴きだした『ミスティック・リバー』(2003年)、『チェンジリング』(2008年)をダーク・サイド・オブ・イーストウッド映画とするなら、さしずめこの『パーフェクト・ワールド』はサニー・サイド・オブ・イーストウッド映画というところだろう。
なぜならこの作品は、ゴミ溜めのような腐りきった現実を引き写したものではなく、生と死の彼岸を描いているからだ。クリント・イーストウッドの眼差しは、常に遥か彼方を見つめている。
- 原題/A Perfect World
- 製作年/1993年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/138分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 製作/マーク・ジョンソン、デヴィッド・ヴァルデス
- 製作総指揮/バリー・レヴィンソン
- 脚本/ジョン・リー・ハンコック
- 撮影/ジャック・N・グリーン
- 美術/ヘンリー・バムステッド
- 音楽/レニー・ニーハウス
- ケヴィン・コスナー
- クリント・イーストウッド
- T・J・ローサー
- ローラ・ダーン
- キース・ザラバッカ
- レオ・バーメスター
- ブラッドリー・ウィットフォード
- ジェニファー・グリフィン
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