晩年の黒澤明が描く、能のごとき夢幻世界
『隠し砦の三悪人』(1958年)のレビューでも書いたが、世間的な評価とは違い、僕は基本的に黒澤明を“物語を魅せる”アクション作家ではなく、“お話を語る”卓越したストーリーテラーだと思っている。
『影武者』(1980年)のクライマックスの合戦シーンで、その凡庸さを露呈してしまったのは、ある程度予想できたことだった。
もともと黒澤は移動撮影を好まない監督だが、猛果敢に騎馬隊が突進していくシーンを、水平にパンを振って捉えるだけでは、映像的ダイナミズムなんぞ期待できず。
だが、『影武者』から5年の歳月を経て製作された『乱』(1985年)は、むしろアクション要素を意識的に薄めて、“動的”ではなく“静的”な映画に仕上げている。
中盤のクライマックスである落城シーンに象徴されるように、縦横無尽にカメラが動き回る戦乱絵巻であらんとする前に、死屍累々の地獄絵図を絵画的に描こうとする意思が感じられるのだ。それでいて、どこか現実感のない白昼夢的な浮遊感もあって、僕はこのシーンに心底から仰天してしまった。
役者たちの幽玄的な佇まい、武満徹による深淵なレクイエムのごとき音楽は、もはや能のごとき夢幻世界をたたえている。
特に今作における柔らかな色彩感覚は、『影武者』で強烈な“黒”が画面全体を支配し、映画に荒々しい迫力を付与していたのと対照的。コントラストの強い色彩ではなく、陰影をあえてつけないスタイリッシュなトーンなのだ。
ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』と、毛利元就の「三子教訓状」をベースに構築された『乱』は、極めて普遍的な悲劇。ある意味でオーソドックスな神話的構造とも言えるのだが、その表現も極めて記号的だ。
そもそも3つの城を抱える戦国大名の一文字秀虎が、長男・太郎に一の城、次男・次郎に二の城、三男・三郎に三の城を分け与え、家督を譲るという設定が(ネーミングを含めて)メチャメチャ記号的。
おまけに息子たちが羽織る衣装が黄(太郎)、赤(次郎)、青(三郎)と分かりやすくカラーリングされ、図式化されている。
リアリズムの対極を極めんとする、アートの横溢。『乱』には、黒澤明の“大芸術家としての強烈な表現欲求”に満ちあふれてる。そもそも『影武者』は、『乱』を撮る為のリハーサルだった、という逸話があるぐらい、黒澤はこの映画に賭けていた。
おそらく、仲代達矢演じる一文字秀虎は黒澤その人だろう。天皇、天才と畏怖されながら、『トラ・トラ・トラ! 』(1970年)の降板劇、自殺未遂騒動など、彼には巨人ゆえに抱える懊悩があった。それを個人的な問題としてではなく、芸術映画という枠内で発露させてしまうところに、強烈な作家性が垣間見える。
ピーター演じる狂阿弥は道化的な役割を担っているが、同時に行き場を失った秀虎を叱咤し、内実を突きつける役割をも担っている。彼が秀虎に投げかける言葉は、黒澤自身の自問自答なのかも。
『乱』という作品は黒澤の自己言及的な要素が強いぶん、記号的かつ装飾的な意匠をまとっているんである。
- 製作年/1985年
- 製作国/日本
- 上映時間/162分
- 監督/黒澤明
- 脚本/黒澤明、小國英雄、井手雅人
- エクゼクティブ・プロデューサー/古川勝巳
- プロデューサー/セルジュ・シルベルマン、原正人
- プロダクション・コーディネイター/黒澤久雄
- プロダクション・マネージャー /井関惺、飯泉征吉、野上照代
- 演出補佐/本多猪四郎
- 撮影/斎藤孝雄、上田正治
- 美術/村木与四郎、村木忍
- 音楽/武満徹
- 録音/矢野口文雄、吉田庄太郎
- 照明/佐野武治
- 衣裳/ワダ・エミ
- 仲代達矢
- 寺尾聰
- 根津甚八
- 隆大介
- 原田美枝子
- 宮崎美子
- 野村武司
- 井川比佐志
- ピーター
- 油井昌由樹
- 伊藤敏八
- 加藤武
- 田崎潤
- 植木等
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