『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971)奇妙な恋の奥に潜む、体制への反抗

『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971)
映画考察・解説・レビュー

4 OKAY

『ハロルドとモード』(原題:Harold and Maude/1971年)は、裕福な家庭に育ちながら自らの存在に違和感を抱える青年ハロルドと、葬式に足繁く通いながら気ままに行動する老女モードが出会う物語である。日常の多くを母親の決定に委ねられているハロルドは、自分の意思を示す方法を見失い、奇妙な行動を繰り返していた。一方、モードは型にはまらないふるまいで周囲を振り回しながらも、ハロルドと行動を共にする中で彼の生活へ影響を及ぼしていく。

体制への“否”を踊る死のワルツ

『ハロルドとモード』(1971年)は、表向きには死を夢見る19歳の青年と、生を謳歌する80歳の老女という、あまりに凸凹で愛らしいロマンスだ。

しかし、そのパッケージの奥底に隠された設計図を凝視すると、そこには単なる「愛の物語」を超えた、極めて政治的で体制的な価値観への“否(ノー)”の態度が、これでもかとばかりに剥き出しになっている。この拒絶こそが物語の主旋律であり、本作を単なるコメディからカルト的傑作へと押し上げた真の正体だ。

主人公ハロルド(バッド・コート)が繰り返す、執拗なまでの「自殺のフリ」。これはブラックユーモアというガジェットを超えた、既存の価値体系に対する凄まじい「構造バグ」の提示である。

首を吊り、手首を切り、銃でこめかみを撃ち抜く。これらの演劇的で過剰なパフォーマンスは、死への執着というより、母親(ヴィヴィアン・ピカップ)に象徴される管理社会、あるいは徴兵制や精神分析といった「個を型にハメる装置」に対する、彼なりのデモなのだ。

ハロルドにとって生死はもはや比喩的な素材。世界と自分を隔てる透明な壁を叩き割るための、無音のメッセージだ。そこへ割って入るモード(ルース・ゴードン)は、まさにカウンターカルチャーの権化である。

葬式に忍び込み、他人の車を拝借し、街路樹を救うために法を無視してスコップを振るう。若者が死へ沈み、老女が生へ突き抜ける。この逆転のダイナミズムこそが、ハル・アシュビー監督が仕掛けた最大のトリッキーな罠なのである。

だが、このロマンスが「個人同士のぶつかり合い」として立ち上がる前に、どうしても「文化記号の組み合わせ」に見えてしまう冷たさが、本作にはある。

アシュビーの演出は、ハロルドとモードの自由を軽やかに描く代償として、対峙する軍や母親、精神科医といった体制側をあまりに戯画的に、記号として処理しすぎている。

その結果、モードの行動はほぼ「回答済みの反体制フォーム」として機能してしまい、彼女の衝動は個人の輝きというより、当時の文化運動のテンプレートに引き寄せられていく。

ルール破り、自然回帰、所有の拒絶。思想のカタログとしては完璧だが、人物としての具体的な重みが、その記号性の下に押しつぶされているように感じられてならないのだ。

腕の刻印が語る沈黙

そんな寓話的な表面を、一瞬だけ鋭利に切り裂くショットがある。モードの腕に刻まれた、あの番号だ。ホロコーストの強制収容所で刻まれたであろうその痕跡は、人生を軽やかに笑い飛ばすモードの内側にある、底知れない裂け目がある。

彼女の自由は、単なる反体制ごっこではない。地獄を生き抜き、生と死の極北を通り抜けた者だけが到達できる、過酷な倫理としての「生」なのだ。

しかし、映画はこの決定的なディテールを物語の中心に据えない。あくまでモードを、ハロルドを導くための「象徴的な師匠」というポジションに留め置いてしまう。

この寓話のスピード感が、人物の個別性を飲み込んでいく圧こそが、本作が抱える不思議な軽さと、ある種の「薄さ」に繋がってしまっている。

特に、80歳の誕生日にモードが自ら死を選ぶ場面。「人生を生き切った」という彼女の言葉は、一見正しく響くが、正直モヤる。生の肯定を叫び続けてきた彼女の行動原理が、死という終着点と有機的に結びつく前に、物語の「都合」が先に立ってしまっているのだ。

映画はハロルドに「生の肯定」を学ばせるための転調としてモードの死を消費する。これは彼女をひとつの機能的な装置として扱ってしまう危うさを孕む。

もしモードの死が、物語をまとめるための装置ではなく、彼女自身の沈黙の倫理の帰結として、もっと深く、暗く描かれていれば、響き方は全く違ったものになっただろう。

ここにあるのは、物語は正しく着地しているが、人間の生々しい重みが残らないという逆説だ。モードの部屋に漂う孤独や、彼女が不意に見せる表情の陰り、それらが生の輝きへ回収される瞬間のざらついた感覚。

そうした細部こそが、本来なら物語の重心になるはずなのに、寓話という名の急行列車がそれを次々と追い越していく。キャット・スティーヴンスのあまりに雄弁な音楽が、その空白を優しく埋めてしまう。

この「図解」としての感覚。キャラクターが「人間」として呼吸する前に「意味」を背負わされてしまうことへの違和感。サッパリ分からないわけではない、むしろ理解できすぎるからこそ、この完璧な構成に息苦しさを感じてしまうのだ。

半世紀を経てなお響く違和感の正体

結局、『ハロルドとモード』をロマンスとして「好きになれるか」と問われれば、僕は首を傾げざるを得ない。時代を説明するための「図解」。あるいは、アンチ体制のポスター。そんな印象が、どうしても網膜に焼き付いて離れないのだ。

この作品が半世紀にわたり、カルト的名作として語り継がれる理由は、その「不完全な軽さ」にあるのだろう。寓話に飲み込まれ、記号化された個人の気配。その空白から漏れ出す、拭いきれないざらついた余韻。それこそが、観客に「何か言い足りないもの」を抱かせ、議論を呼び起こし続けるエネルギー源となっている。

もちろん、細部には確かな震えがある。ホロコーストの刻印をさらりと映す冷徹な視線。モードの孤独がふと立ち上がる一瞬の静寂。ハロルドが初めて心から笑う、あの眩しい表情。

それらが物語の中心に統合されないまま、寓話と人間のあいだで浮遊し続けることこそが、この映画の最大の特徴であり、最大の弱点でもある。この宙吊りの状態こそが、本作を単なる「古き良き映画」にさせず、いまも評価と違和感の両方を同時に呼び起こし続ける呪縛のような魅力なのだ。

この映画は、現実の複雑さや老いの重さ、死の残酷さを、映画的な理想形へと強引に収束させていく。その強引さ、あるいは美しすぎるまとめ方に対して、僕たちはどう向き合うべきか。

寓話が人を救うのか、それとも人を記号の中に閉じ込めるのか。『ハロルドとモード』という映画は、その問いを私たちに突きつけたままで、軽やかにダンスを踊り続けている。

DATA
  • 原題/Harold and Maude
  • 製作年/1976年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/92分
  • ジャンル/ドラマ、恋愛
STAFF
  • 監督/ハル・アシュビー
  • 脚本/コリン・ヒギンズ
  • 製作/コリン・ヒギンズ、チャールズ・B・マルヴェヒル
  • 撮影/ジョン・A・アロンゾ
  • 音楽/キャット・スティーブンス
  • 編集/ウィリアム・A・ソーヤー、エドワード・A・ワーシルカ・ジュニア
CAST
  • ルース・ゴードン
  • バッド・コート
  • ビビアン・ピックレス
  • シリル・キューザック
  • チャールズ・タイナー
  • エレン・ギア
  • エリック・クリスマス

FILMOGRAPHY