快感指数120%。強烈な色彩と幾何学模様に富んだ枯山水テクノ
京都在住の電子音楽家、レイ・ハラカミ。矢野顕子のライブに出演した際に、コンビニ帰りような格好をして「くるりじゃなくて、すいません」と平身低頭謝った、ローカルエリアでいそいそとアンビエント・ミュージックを紡ぐ職人である。
そういえば、竹村延和も同じく京都在住のテクノ・アーティストだが、どうやら現在進行形で日本のテクノ・シーンは、趣致に富む古都から生まれてくるらしい。
20数年前、YMOは『テクノポリス』で「TOKIO!!」を連発したが、これからはTOKIOではなくKYOTOである。風雅をたたえたワビサビのあるテクノ、枯山水テクノの時代なのだ!!
20世紀初頭、「電子は波であり粒である」という画期的な学説が誕生した。明確な実体を持った存在である「粒」、空間的な広がりのある「波」。
まったく相反する性質が同居しているという、光についての考察が物理学界を席巻したのである。21世紀に突入した今、「レイ・ハラカミの音もまた波であり粒である」という考察もあり得るのではないか?
そして、くるりやUAやナンバーガールといったアーティストたちとの邂逅を経てリリースされたアルバム、『Lust』(2005年)。Rolandの音源とAKAIのサンプラーのみで創りあげられたスペーシーな異空間は、快感指数120%。
京都の長屋を思わせる、ワビサビ・ジャケットも気持ちいい。さらには巨匠・細野晴臣の『終わりの季節』を、自らのヴォーカルで吹き込んでしまうなんていうサプライズもあったりする。
レイ・ハラカミの音楽から僕が夢想するのは、20世紀を代表するスペインの巨匠ジョアン・ミロの絵画だ。
強烈な色彩、シンプルな点と線による幾何学模様。点描画のように太く丸く穏やかな音の粒が、微妙な陰影をたたえて流れては消えていく。
それはまるで水面にゆっくりと波紋が広がっていくかのように、なだらかな山脈に夕陽が差し込んでいくかのように、ディープな感情が淡い色調を帯びて揺らいでいるのだ。
ハラカミのどのアルバムのどの曲を聴いてみても差異が感じられないのは、メロディーを造り出すこと自体に目的があるのではなく、音像によってもたらされるある種の空間演出、インスタレーション的な戦略に基づいて製作活動を行っているからだと思う。
レイ・ハラカミは引き算の美学によって音をクリエイトする音楽家なのではなく、干渉性の低い音楽、つまり最もアンビエンスの核となる部分を知り尽くした演出家なのだ。
- アーティスト/レイ・ハラカミ
- 発売年/2005年
- レーベル/ミュージックマイン・アイディー
- long time
- joy
- lust
- grief & loss
- owari no kisetsu
- come here go there
- after joy
- last night
- approach
- first period
最近のコメント