“9.11”というトラウマをエンターテインメントとして昇華させてしまった、ディストピアSF
一貫して、宇宙人との心温まる交流を描いてきたスピルバーグが、9.11以降に敢えて宇宙人の襲来を描いた『宇宙戦争』(2005年)。「さぞかし、ポリティカルなメッセージがたんまり込められているに違いない」と思って観にいったところ、見事なまでに政治的なモノはナッシングであった。
地中に埋められていたトライポッドが、殺人ビームを発射して人間を惨殺するシーンなんぞ、ポール・バーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』にも通じる阿鼻叫喚ぶりで、スピルバーグの無邪気なまでのエンターテインメント精神に貫かれていた。
そう、この映画はおっそろしく無邪気なのである。
宇宙人から逃げまどう一般ピープルにファインダーを合わせるという行為は、どうしたって9.11にシンクロしてしまうんだけども、たぶんスピルバーグは、エンパイア・ステート・ビルが音を立てて崩れ落ちるあの衝撃的なシーンに、政治的ではなく映像的なインパクトとして大きなインスパイアされたんではないか?
かの『プライベート・ライアン』(1998年)だって、「戦争って残酷だよねー、絶対やっちゃいけないよねー」というお題目を唱えていながらも、彼は単にシネマホリックとして、ノルマンディー上陸作戦の超残虐シーンを描きたかっただけなのだ。
思想・信条を語る手段としての映画作品が大量生産される昨今にあって、スピルバーグは純粋なクラフトマンシップのみで語られるべきフィルムメーカー。理論武装も何もない、屈託のない稚気こそが、彼の最大の武器なのだ。
ただ、彼は表立ってエンターテインメントを標榜している訳ではない。『宇宙戦争』でも、倫理的な問題を挿入することによって、人間ドラマに奥行きを与えようとしているのだが、コイツはあんまり頂けない。
僕はズバリ、「トム・クルーズがティム・ロビンスを殺害するシーン」について言及しているんだが、致命的なくらいにティム・ロビンスの人物造形描写が欠落しているために、「危機的状況においては、人を殺めることも仕方がない」という安易な結論に導かれてしまう。
WEBで片っ端からググっていくと、巷では「根本的にドラマとしてのカタルシスが感じられない」ことにご立腹の御仁が少なからずいらっしゃるようである。
『インデペンデンス・デイ』(1996年)が、アメリカ大統領をはじめ地球存亡の危機に関わる中枢のキャラクターたちによって描かれたマクロ視点の作品とするなら、しがないブルーカラーの労働者を主人公に据えたこの映画は、明らかにミクロ視点の映画。
地球を救う役割を担うどころか、ひたすら子供たちを抱えて逃げまどうだけの父親にファインダーを合わせたことに対し、映画をご覧になった諸兄はご不満の様子なのである。
でも、これはこれでいいのだ!!だって、そーゆー映画なんだもん。ドッジボールでいえば、いかに相手のボールを奪い取って敵の人数の減らすかということよりも、最後の一人になるまで逃げまくる、というコンセプトに立脚した映画なんである。
まずは、9.11というアメリカが抱えるトラウマすらもエンターテインメントとして昇華できてしまう、スピルバーグの徹底した職人ぶりに感嘆すべきなのだ。
- 原題/War Of The World
- 製作年/2005年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/114分
- 監督/スティーヴン・スピルバーグ
- 製作総指揮/ ポーラ・ワグナー
- 製作/キャスリーン・ケネディ、コリン・ウィルソン
- 脚本/ジョシュ・フリードマン、デヴィッド・コープ
- 原作/H・G・ウェルズ
- 撮影/ヤヌス・カミンスキー
- 美術/リック・カーター
- 音楽/ジョン・ウィリアムズ
- 衣装/ジョアンナ・ジョンストン
- 特撮/デニス・ミューレン
- 編集/マイケル・カーン
- トム・クルーズ
- ジャスティン・チャットウィン
- ダコタ・ファニング
- ティム・ロビンス
- ミランダ・オットー
- ダニエル・フランゼーゼ
- ジーン・バリー
- アン・ロビンソン
- リック・ゴンザレス
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