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2017/10/30

『ヘルタースケルター』(2012)美と虚構はなぜ蜷川実花の手で停滞したのか?

『ヘルタースケルター』(2012)
映画考察・解説・レビュー

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『ヘルタースケルター』(2012年)は、岡崎京子の同名漫画を原作とし、蜷川実花が監督を務めた映画。沢尻エリカが全身整形によって美貌を得たカリスマモデル・りりこを演じ、北乃きい、寺島しのぶ、大森南朋、窪塚洋介らが共演する。芸能界の頂点に立ちながらも、身体の異変と心の崩壊に追い詰められていく彼女の姿を通して、欲望と虚飾に覆われた現代社会の表層を映し出す。

虚像の中の時代錯誤──岡崎京子の“教科書的バブル”をいかに再生するか

『ヘルタースケルター』(2012年)を映画化すると聞いたとき、最初に脳裏をよぎったのは、果たしてこの作品を現代に蘇らせる意味があるのか?という疑念だった。

岡崎京子は1980年代後半、消費社会のアイコンとして瞬く間に時代を駆け抜けた作家だったが、その文体も人物造形も、バブル期の空気と密接に結びついていた。

彼女の描いた美は、資本主義の加速がつくり出した幻影であり、雑誌文化、ファッション、メディアの一体化によって支えられた“虚飾のリアリズム”。ゆえに、21世紀に入って彼女の作品を読み返すと、それは同時代の教科書のように感じられる。

ヘルタースケルター
岡崎京子

華やかさの裏に空虚を抱え、自己演出に溺れた社会の肖像。だが2010年代の映像作家がそれを再演したとき、そこに新たな視点を生み出せるのだろうか。普通に考えれば、ほぼ無理ゲー。そこに不安を覚えたのである。

そして実際に映画を観てみると、蜷川実花が選んだのは「時代の更新」ではなく、単なる「時代の保存」でしかなかった。おそらく彼女はこの作品を、自らの青春を彩った原作へのオマージュとして撮っている。だからこそ、映画は批評でも問題提起でもなく、きらびやかな再演に終始してしまっている。

ネオンの光、飽和したピンク、血のように濃い赤。蜷川のカメラは被写体を愛でるように舐め回すが、そこに“観察”や“解体”の視線はない。りりこ(沢尻エリカ)というキャラクターは、80年代の残響としてスクリーンに召喚されるが、彼女の生の輪郭は蜷川の色彩に溶けていく。

現代のSNS社会では、誰もが自己を編集し、虚像を配信する。つまり岡崎京子が先取りした「メディアによる身体の複製」は、すでに現実となっている。にもかかわらず、この映画にはその現在性が欠落している。

蜷川はスマートフォンの光ではなく、バブルの残光を信仰する。彼女にとって“映すこと”は“祈ること”であり、その祈りは過去の美学に向かっている。それはノスタルジーでしかない。

色彩の暴力と映像の停滞──“蜷川実花ワールド”の限界

確かに沢尻エリカという女優は、この作品において圧倒的な存在感を放っている。彼女の肉体は虚像でありながら実体を持ち、その表情の一つ一つが、メディアと自己意識の狭間で軋むように痛々しい。冒頭の性愛描写も、露骨な官能ではなく“身体の崩壊”の序章として機能している。

蜷川のカメラはそれをフェティッシュに追うが、同時に冷徹でもある。レンズは肌を照らし、光が皮膚を焼く。りりこの肉体は欲望の対象であると同時に、時代の犠牲者だ。

沢尻の演技には、“見られることへの依存”と“見られることの恐怖”が共存している。彼女は露悪的に、しかしどこか清らかに堕ちていく。その姿は、2007年の「別に」発言以降、メディアに消費され続けた女優自身のメタファーにも重なっている。

『ヘルタースケルター』は、りりこと沢尻という二つの虚構が融合することで、自己崩壊の儀式を成立させている。だがそれをフレーム内でコントロールできるほど、蜷川の演出は冷静ではない。彼女のカメラは、女優の激情に飲み込まれていく。

蜷川実花の映像世界は、飽和する色彩と過剰な装飾によって支配されている。ピンク、紫、金。あらゆる色が視覚的快楽をもたらす一方で、物語の構造は空洞化していく。

色が支配する瞬間、時間は停止し、感情の流れが遮断される。映画が進むほど、観客は“見せられている”ことを意識せざるを得ない。蜷川の演出は、表層的には挑発的だが、その挑発は安全な領域で管理されている。

暴力も性愛も、どこか装飾的で、演出されたスキャンダルにすぎない。これは“パンク”の装いをした“保守”の映画だ。反逆のポーズをとりながら、その内実は極めて管理的で、予定調和的である。

彼女のビジュアルは写真集の延長線上にあり、映画的時間を切り裂くことができない。フレームは美しく、被写体は妖艶だが、その関係性は固定されている。観客はただ“蜷川実花ワールド”を消費する。だが、それは映画的体験ではなく、ビジュアル・インスタレーションに近い。

消費社会の亡霊──“見ること”への中毒と救済なき視線

『ヘルタースケルター』が描くのは、美の頂点で自己を喪失していく女性の悲劇だ。しかしその物語を現代的に読み替えることは、蜷川にはできなかった。

りりこはSNS時代の“インフルエンサー”的原型であるはずだが、彼女の姿はネットではなく雑誌の紙面の上に閉じ込められている。映画は、「見る/見られる」という権力関係を問い直す契機を持ちながら、それを発火させることなく終わる。

蜷川の視線は、りりこを救おうとするでも、突き放そうとするでもなく、ただ観賞している。観客もまたその立場を共有する。私たちはりりこを“消費”しながら、同時に彼女の孤独をスクリーンの向こうに追いやっていく。

映画の終盤、肉体が崩壊していくりりこが、それでも“光の中で”微笑むとき、そこにはカタルシスも赦しもない。あるのは、見ることそのものへの中毒的な快楽だけだ。

はっきりいって『ヘルタースケルター』は、パンクを装った保守映画だ。露悪的な映像、センセーショナルな宣伝、沢尻エリカというスキャンダラスなスター。すべてが挑発の形式をとりながら、その実、映画は構造的に安全圏に留まっている。

蜷川実花は“革命”を描こうとしたのではなく、“ノスタルジー”を撮った。かつての虚飾の女神を、もう一度美しく燃やしてみせたにすぎない。その姿は痛々しくもあり、同時に時代の限界を露呈している。

岡崎京子が予言した“消費社会の終焉”は、すでに我々の現実となった。にもかかわらず、この映画の世界は、いまだ鏡の中に閉じ込められたままだ。蜷川実花が描くのは、“時代の女”ではなく、“時代に取り残された女”なのだ。

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