救いようのない現代日本で生きるための、処方箋的映画
このテの映画を語るには、自己告白も必要かもしれない。
多くの人がそうだと思うが、僕も一時期、他者から承認されることを異常なまでに欲していた時代があった。自分の立ち位置も見極めきれず、焦燥感は募っていった。
『アカルイミライ』(2002年)のオダギリ・ジョーは、暴力という形でハケ口を求めたが、僕はあえて孤独を招き寄せることによって、自らを慰めていた。
オダギリ・ジョーが抱えている焦燥感は、僕にとっては“過ぎ去った問題”だ。“理由なき反抗”であるならば、既成事実に対するレジスタンスとして存在するんだが、彼はその理由すら分からないままにイラついている。
それは生きる意味を喪失し、まったりと生きざるをえないポストモダン社会において、モラトリアムな時期を過ごす者なら誰しもが通過しなくてはならない、暗い時代なのだ。
浅野忠信が手信号で指し示す「待て」と「行け」は暗示的だが、「行け」と言われてもどこへ行けばいいのか分からない。仮親としてオダギリを導く浅野の死によって、その役目は藤竜也に受け継がれ、「私は君を許す」というかなり直接的なセリフによってオダギリは承認される。
車に乗っているシーンが常にスプリット・スクリーンになっていて、藤=オダギリ(親=子)の微妙な関係が直裁な映像比喩として描かれているのは、実に象徴的だ。
二人の関係は、承認のシーンを経て劇的に変化したはず。そしてオダギリ自身にも「行け」という能動的なパワーが与えられたはずなのだ。しかし、黒沢清は語る。
揺れ動く人間として雄二を描いた。最終的に僕が目指したのは、分かり合えることではなく、分かり合えなくても大丈夫なんだというところに、雄二を連れて行くことだった
分かり合えなくてもいい、と黒沢はいう。僕には「承認によって、この時代を生き抜く原動力を得る」というメッセージを勝手に受け止めてしまったために、この発言にはかなりアセった。
「分かり合えなくても大丈夫」ならば、それは何によって「大丈夫」になるのか。それには強固な内的確信が必要となるはずだが、何によって内的確信は得られるのか。
例えば、こういう解釈はどうだ。触れれば命を落とす危険性を持ったアカクラゲは、海水でしか生存できない動物だったにもかかわらず、真水に馴れさせることによって、異なる生態環境でも生存できる「ニュータイプ」として生まれ変わる。
ニュータイプはニュータイプを産み、大量発生したアカクラゲは海を目指す。それは意味の喪失した現代社会に適応できるための、「ニュータイプ」を産む土壌があることを示しているのではないか。
『アカルイミライ』は、救いようのない現代日本で生きるための、処方箋のような映画だ。ティーンエイジャーの、おもいっきりモラトリアムしている時分にこの映画と出会っていたら、見方はまるで違っていただろう。
しかし僕はもう40歳を越えてしまった。社会性を帯び、オダギリ・ジョーの抱える苛立ちに心から共感できる時代は過ぎてしまったのだ。
- 製作年/2002年
- 製作国/日本
- 上映時間/115分
- 監督/黒沢清
- 脚本/黒沢清
- エクゼクティブプロデューサー/浅井隆 小田原雅文、酒匂暢彦、高原建二
- プロデューサー/ 浅井隆、野下はるみ、岩瀬貞行
- ライン・プロデューサー/椋樹弘尚
- 撮影/柴主高秀
- 音楽/パシフィック231
- 録音/郡弘道
- 衣裳/北村道子
- 美術/原田恭明
- オダギリジョー
- 浅野忠信
- 藤竜也
- りょう
- 笹野高史
- 白石マル美
- 小山田サユリ
- はなわ
- 加瀬亮
- 森下能幸
- 沢木哲
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