享楽的かつ祝祭的ムード全開の、フェデリコ・フェリーニによる自己告白
18に分割されたシークエンスを数珠繋ぎした『甘い生活』(1960年)には、核となる中心ドラマが存在しない。
だが一貫したストーリーの不在が不思議な無重力感を生成し、どこかけだるい倦怠感に拍車をかけている。つまり、描かれているのは“空虚”そのもの。こんな映画には、煙草をくもゆらせながら、ソファーに寝そべって鑑賞するのがベストだろう。
作家を目指してローマに出てきたものの、その志が叶うことはなく、ゴシップ記者として魂を切り売りしている主人公マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)。
彼の目の前には、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、マガリ・ノエルと、ありとあらゆる美女が入れ替わり立ち替わりに現われ、不毛で乱痴気なパーティーに誘う。
メビウスの輪のように入り口も出口もない、エンドレスな円環に閉じ込められたマストロヤンニは、「そこから抜け出したい」と思いつつも、自堕落な“甘い生活”にズッポリと身を浸してしまう。
商売女のベッドで情婦とベッドイン!
噴水でグラマラス美女とアツい抱擁!
ブロンド美女の上に馬乗りになってお尻をペンペン!
眠らない都市ローマで、めくるめくような情欲ライフが展開する。「あなたを愛してあげるのは私だけよ」なんて面倒くさいことを言う、奥さん気取りのヒステリー女なんて捨てちまえ!捨てて良し!
“いままここにいる自分”との乖離を感じている、知識人特有のインテリ感性を保ち続けているマストロヤンニだったが、精神の拠り所としていた友人スタイナーの自殺によって、彼は完全に“甘い生活”に急滑降。
グッバイ理想の自分、ハロー現実の自分。やっぱコレって、フェデリコ・フェリーニの正直な自己告白ってコトか。しかし難解極まる内省的物語に淫せず、享楽的かつ祝祭的ムードを醸し出しつつ、寓話的に物語は展開していいく。
ラストに登場する腐敗した巨大魚は、マストロヤンニ=フェリーニ自身を表す象徴的オブジェなのだろう。彼を“甘い生活”から救出するために現われたであろうポニーテールの少女の声は、しかしながら彼の耳には届かない。
虚無的な無常観をたたえつつも、映画はオプティミズティックに帰着する。これまさにフェリーニ流。スノビッシュな内省的映画だったら、相当鼻持ちならない作品に仕上がっていたことだろう。
ちなみに、マストロヤンニから「ニコ!」と呼びかけられるモデル風美女は、『The Velvet Underground and Nico』(1967年)でお馴染みのニコその人。アンニュイな物腰がグーですね。僕もニコと夜通しパーティーやってみたいです。
- 原題/La dolce vita
- 製作年/1960年
- 製作国/イタリア
- 上映時間/174分
- 監督/フェデリコ・フェリーニ
- 製作/ジュゼッペ・アマート
- 原案/フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネリ、エンニオ・フライアーノ
- 脚本/フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネリ、オテロ・マルテリ
- 音楽/ニーノ・ロータ
- 撮影/オテッロ・マルテッリ
- 美術/ピエロ・ゲラルディ
- マルチェロ・マストロヤンニ
- アニタ・エクバーグ
- アヌーク・エーメ
- レックス・バーカー
- イヴォンヌ・フルノー
- アラン・キュニー
- マガリ・ノエル
- ナディア・グレイ
- ジャック・セルナス
- アンニバレ・ニンキ
- リカルド・ガローネ
- レネ・ロンガリーニ
- ヴァレリア・チャンゴッティーニ
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