SF評論家の大森望も言及していたとおり、80年代以降のSFの映像パラダイムは『ブレードランナー』(1982年)に支配されてしまって、後発のSF作品はいかにそこから脱却するか、が評価の分水嶺になってしまった。
士郎正宗原作の人気マンガを映画化し、ジャパニメーションの嚆矢となった『Ghost In The Shell 攻殻機動隊』も、ブレラン世界観をブレラン的アプローチで描いた作品。
「ネット」という90年代的キータームをモチーフに、「自分とはいったい何者なんぞや?」という哲学の大命題をさらに押し進めた、サイバー・サイエンスフィクション・ムービーなのである(実は『ブレードランナー最終版』でも、そのあたりの描写は濃厚なのだが)。
この作品が革新的なのは、「ネットという情報の洪水のなかで、ひとつの生命が育まれる」という着想に尽きる。自分を自分たらしめているものが、「記憶=情報」と仮定するなら、巨大な情報の羊水とも言えるネットから、「生命」が誕生しても不思議ではない…。
そんなトンデモな着想を、「ハッカー」や「コンピューターウイルス」といった、当時の最先端ワードをちりばめながら、形而上学的に展開していく手管は、やはりオシイ流。意外にも情感に満ちたセリフも含めて、この映画にはまさしく“ゴースト”が宿っている。
ゴースト…、そう、この映画には、我々の記憶を喚起させる“サムシング”に満ちているのだ。例えば、川井憲次によるオリエンタルで静謐な音楽。大和言葉による民謡・太鼓で構成されたサウンドトラックは、日本人が日本人たるアイデンティティーを思い起こさせてくれるかのようだ。
ジャパネスクなサウンド・アプローチによって、「記憶」というキーワードが複合的に観客に明示される。その次代の感性に、「攻殻機動隊フリーク」であることを公言しているジェームズ・キャメロンも、シビれたに違いない。
本編の主人公・草薙素子少佐は、完全にサイボーグ化された存在である故に、「コギゴ・エルゴ・スム」な逡巡を続ける。そして新たな義体を得た彼女の前には、無限の情報の海が広がっている。
このラストシーンには、哲学がジャパニメーションという形式をなぞって、エンターテインメントに昇華した記念碑的な瞬間が焼き付いている。
あまり乱用したくない言葉だけど、やっぱりこの映画は傑作だ。のちのサイバーパンク・アニメーションは、例外なく『Ghost In The Shell 攻殻機動隊』にベンチマークされる運命も、やむを得ないのである。
- 製作年/1995年
- 製作国/日本
- 上映時間/80分
- 監督/押井守
- 原作/士郎正宗
- 脚色/伊藤和典
- 音楽/川井憲次
- 演出/西久保利彦
- プロデューサー/水尾芳正、松本健、石川光久
- 製作/宮原照、渡辺繁、アンディ・フライン
- 作画監督 /沖浦啓之、黄瀬和哉
- 演出助手/中津環
- 田中敦子
- 大塚明夫
- 山寺宏一
- 仲野裕
- 大木民
- 玄田哲章
- 生木政壽
- 山内雅人
- 小川真司
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