深刻ぶったウィル・スミスがとにかく頑張る、安直SF
【思いっきりネタをばらしているので、未見の方はご注意ください。】
- ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
- ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第1条に反する場合は、この限りでない。
- ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
SF界のオーソリティー、アイザック・アシモフの『われはロボット』(1950年)を原案に描かれた、アクション・スリラー大作。ロボットの反乱というテーマは、かつて手塚治虫が『鉄腕アトム』(1952年〜1968年)や『メトロポリス』(1949年)などで用いられた古典的モチーフである。
ある意味で我々日本人は、「人間とロボットは共存できるのか」というテーマを50年以上昔から思考し続けてきた訳で(ひょっとしたら日本でロボット工学が盛んなのも、その理由に拠るのかもしれないが)、2004年にこんなテーマ出されても…といような“今さら感”があるのも事実。
しかし典型的ハリウッド映画形式としてリサイクルされたこの映画では、ロボットがコギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)する哲学的なモチーフはいっさい削除されており、ロボットの反乱は単純にV.I.K.I(ビッキー)なる全能のコンピュータによる仕業だったという、かなり安直な内容。
っていうか、戦争、環境汚染などの例を挙げるまでもなく人間は不完全な存在であり、ゆえに人間はロボットの管轄下に置かれるべきであるというロジックは、ラニング博士が言うところの「ロボット三原則は、論理的にひとつの結論に帰結する。
革命だ」には全然結びつかないじゃんか。僕がバカで理解できていないのかどうかは分からないが、これって映画の根幹に関わる部分だと思うので、誰かキチンと説明できる人がいたら僕宛てにメールしていただけるとありがたいです。
まるでジョン・ウーのごとく様式化されたアクションシーンは、SF的世界観とまったくマッチせず。ウィル・スミスにいたっては、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998年)や『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999年)で発揮してきたような、鼻歌まじりに危機を次々と乗り越えていくノリがほとんどナシ。
深刻ぶったウィル・スミスなんて、見たくないよー!!!彼がロボットに不信感を抱くようになった過去のトラウマや、左腕の秘密といった小ネタも、あまり有効に機能していない。
最後に不満をもうひとつ。ラスト、目的を喪失したサニーが砂漠に立つシーンは、プロヤス曰く
砂漠に立つ救世主というのはモーゼでもあり、キリストでもあり、マホメットでもある。サニーがロボットの民を善導していくことを暗示している
っていうことらしいが、未来への希望に満ちたシーンにはゼーンゼン見えない。
自我を獲得したサニーがV.I.K.Iにかわって人類に反乱を起こすという、カタストロフを象徴したシーンではないのか?善導って言葉自体が割とトリッキーだし(善っていうのは人間にとって善という訳で)、どうにも釈然としないラストではある。
- 原題/I, Robot
- 製作年/2004年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/115分
- 監督/アレックス・プロヤス
- 脚本/アキヴァ・ゴールズマン、ジェフ・ヴィンター
- 原作/アイザック・アシモフ
- 製作/ローレンス・マーク、ジョン・デイヴィス、トファー・ダウ、ウィック・ゴッドフリー
- 製作総指揮/ウィル・スミス、ジェームズ・ラシター
- 撮影/サイモン・ダガン
- 美術/パトリック・タトポロス
- 編集/リチャード・リーロイド、アルメン・ミナジャン、ウィリアム・ホイ
- 音楽/マルコ・ベルトラミ
- 衣装/エリザベス・キーオウ・パーマー
- ウィル・スミス
- ブリジット・モナハン
- アラン・テュディック
- ブルース・グリーンウッド
- ジェームズ・クロムウェル
- チー・マクブライド
- シャイア・ラブーフ
- エミリー・テナント
- ジェリー・ワッサーマン
- エイドリアン・L・リカード
- フィオナ・ホーガン
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