ゲーム的リアリティーとセカイ系リアリティーが内包された、時空を超えた超恋愛ドラマ
「日本アカデミー賞」最優秀アニメーション作品賞受賞、「毎日映画コンクール」アニメーション映画賞受賞、「報知映画賞」特別賞受賞、「東京アニメアワード」アニメーション・オブ・ザ・イヤー受賞、「文化庁メディア芸術祭」アニメーション部門大賞受賞…。
’06年のアニメ映画賞は、独禁法に抵触するのではないか?というくらいに、ぜーんぶ『時をかける少女』がかっさらってしまった感がある。
果たしてこの細田守監督の『時をかける少女』(2006年)は何がイイのか、何がここまで人を惹きつけるのか。僕の心の片隅には常に『時をかける少女』があったのだが、何となく今までスルーしまっていた。
しかし、一つのアニメ作品を徹底的に語り合う『BSアニメ夜話』という番組で『時をかける少女』が紹介された際、鑑賞してから5分程度で「この映画はやはり傑作に違いない」という天啓が稲妻のようにひらめき、テレビを消すや否やDVDをレンタルすべくTSUTAYAに猛ダッシュしたのである(疲れた)。
結論から言うと、『時をかける少女』は確かに完成度の高い傑作アニメだった。躍動感のあるキャラクター、ツボを押さえた演出。
しかし一番重要なのは、物語を原作の20年後に設定したことによって、東浩紀が提唱しているゲーム的リアリティーや、“キミとボク”の小さな人間関係が大状況をも呑み込んでしまう「セカイ系」としてのリアリティーといった、現代的なモチーフが織り込まれている点にある。
たとえば本編の主人公・紺野真琴は、何度でも過去に遡れるタイムリープを駆使する訳だが、ここではタイムパラドックスという概念は全くもって存在しない。
原作では、「過去の出来事が未来に干渉する」という当たり前のタイムパラドックスが存在していたが、このアニメ版におけるタイムリープは、TVゲームのリセットボタンと全く同じ原理。いつでも分岐点に戻ってやり直しが可能なんである(実際に作品内でも『リセット』という表現が使われている)。
もちろん現実の人生はやり戻せるものではないが、すでに我々はバーチャルな世界において、何度もリセット(やり直し)を体験している。現実世界で確実に侵食しているこのゲーム的リアリティーが、現代的なモチーフとして有効に機能しているのだ。
「セカイ系」としてのリアリティーも本作で特筆すべき事項である。『BSアニメ夜話』の中で、岡田斗司夫はこの作品の完成度の高さを認めながらも、「セカイ系」であるがゆえに描かれている世界があまりにも卑近であることに不満を述べていた。
しかし、この作品はまず何よりも青春恋愛映画というフォーマットにのっとった作品なのであって、紺野真琴という等身大の女子高生にとっては、この小さくも慎ましやかな世界こそが彼女の全てなのである。
彼女にとってのリアリティーは、親や友達に囲まれた卑近な世界で、冷蔵庫にしまってあったプリンを食べることであり、放課後にキャッチボールをすることであり、カラオケボックスで何時間も歌を歌うことである。
よって、岡田斗司夫が発言したような「なぜ彼女は明治維新の時代にタイムリープしないのか?」といった疑問は、この場合あまり有効ではない。そのような大状況の変化が生じてしまうと、「セカイ系」としてのリアリティーが崩壊し、逆に説得力を欠いてしまう。
結局この『時をかける少女』は、ゲーム的リアリティーとセカイ系リアリティーが内包された、ベタなぐらいに「今ここ」な恋愛ドラマなのだ。だからこそ、夕焼けをバックに、二人乗りの自転車で「俺とつきあえば?」と告白するなんていう、ベタベタなシーンが成立してしまう。
ラストシーンで、紺野真琴は「やりたいことを見つけた」と高らかに宣言する。文系、理系のどちらを専攻するかで迷っていた彼女は、おそらく理系を選択して、将来タイムリープの発明に腐心することだろう。
「未来で待っている」というとんでもないプロポーズを受けた彼女の、時空を超えた超恋愛ドラマがここに完成する。
- 製作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/98分
- 監督/細田守
- 原作/筒井康隆
- 製作総指揮/角川 歴彦
- プロデューサー/渡邊 隆史、齋藤 優一郎
- 脚本/奥寺佐渡子
- 美術監督/山本 二三
- キャラクターデザイン/貞本義行
- 美術監督/山本二三
- アニメーション製作/マッドハウス
- 仲里依紗
- 石田卓也
- 板倉光隆
- 原沙知絵
- 谷村美月
- 垣内彩未
- 関戸優希
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