戦後イタリアに登場したのが、ネオ・リアリズモなる新しい表現形式だ。
写実的なタッチで、社会の現実を活写するスタイルだが、『自転車泥棒』はその代表的作品といえるだろう。
貧困にあえぎ、必死に明日を生きようとする失業者の生活を、『自転車泥棒』は容赦のないリアリズムで描いていく。これを観れば、「現在の日本の不況なんてたいしたことないなー」と思えること必至である。
ビットリオ・デ・シーカの演出は全体のコントラストにまで神経が及んでいる。
自転車のことで頭がいっぱいの親父を冷徹な視点で見据えながら、いたいけな子供の主観的ショットもさりげなく挿入されているのは心ニクイし(イタリアン・レストランのシーンは特に顕著だ)、自転車泥棒の共犯者と思われる老人を捜しまわるシーンでは、ヒッチコックばりのサスペンス・タッチで緊張感を煽ってみせる。
さらには、悲劇的なストーリーをユーモアとペーソスを交えた語り口で中和をはかるなど、その職人芸には驚嘆しっぱなし。デ・シーカ、あんたスゴイよ。
この映画では常に観客の予想を裏切り続ける。御都合主義でストーリーは進行しない。例えば親子が老人を探し歩いていると、川岸で人が溺れているのを耳にする。
普通の映画だったら100%溺れている人物はお目当ての老人に違いないんだろうが、まったくの別人だったりする(しかも老人は最後まで見つからずじまいだ!)。
序盤で「評判の占い師がいる」という伏線を張っているため、後半で親子はワラにもすがる気持ちで占い師を訪ねる。
普通の映画だったら、ここでヒントを得そうなもんだが、この占い師は「すぐ見つかるか、永久に見つからないかのどっちかです」などとトンカチな事をぬかしやがる。
しかし、まあ何が一番驚くって「結局自転車は見つからない」という残酷な結末だろう。当時、大不況下のイタリアにおいて、仕事を探すのは困難を極めた。
自転車で移動しながら、壁にポスターを貼る仕事をあてがわれた父親にとって、「自転車」は生活の糧を得る手段であり、生きるための道具である。
絶望のどん底のなか、クライマックスで彼自身が自転車を盗み、犯罪者になりさがってしまうことを誰が責めることができよう?我々はただ、子供の「パパ!パパ!」という悲痛な叫びを聞くしかない。
余談だが、父親を演じたランベルト・マジョラーニは演技経験ゼロの電気工であり、子供役のエンツォ・スタイオーラ君は、デ・シーカ監督が街でみつけた素人だそうである。にもかかわらず、この圧倒的な表現力!
役者って何なんだろうと、いろいろ考えさせられてしまうなあ。
- 原題/Ladri Di Biciclette
- 製作年/1948年
- 製作国/イタリア
- 上映時間/88分
- 監督/ビットリオ・デ・シーカ
- 製作/ビットリオ・デ・シーカ
- 原作/ルイジ・バルトリーニ
- 脚本/チェザーレ・バラッティーニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ
- 撮影/カルロ・モントウォーリ
- 音楽/アレッサンドロ・キコニーニ
- ランベルト・マジョラーニ
- エンツォ・スタイオーラ
- リアネーラ・カレル
- ジーノ・サルタマレンダ
最近のコメント