「閉じられた共同体」と「天皇論」を掛け合わせた、ラディカルな一作
一世一代の晴れ舞台であるはずの芥川賞受賞時に、苦虫をかみつぶしたような表情で無愛想にマスコミからのインタビューに返答したことから、一部の腐女子から“不機嫌メガネ男子”としてアツい眼差しを向けられた田中慎弥氏。
そんな彼の芥川賞受賞作を青山真治が映像化したのが、この『共食い』(2013年)。昭和の山口県下関を舞台に、性と暴力が渦巻く濃厚ドラマが繰り広げられる。
主人公は17歳の高校生・遠馬(菅田将暉)。父親の円(光石研)と愛人の琴子の三人暮らしており、母親の仁子(田中裕子)は、セックスの最中に相手をブン殴るという悪癖を抱える円から距離を置き、川向こうで魚屋を細々と営んでいる。
そんな父親の血を受け継ぐ遠馬は、ガールフレンドの千種(木下美咲)とのセックスにふけりつつも、「自分自身も、女を殴ることでしか性的快感を得られないのでは!?」という不安に苛まれる…。
端的にいえば、土着的(中上健次的ともいえる)な「閉じられた共同体」のなかで、ヤリたい盛りの男子高校生のドS性癖が描かれる、という訳だ。
青山真治は「閉じられた共同体」を映像化するにあたって、下関の片田舎を“家族だけが住むゴーストタウン”として描出してしまう。
学校帰りの遠馬がトボトボと町を歩くオープニングシーンにしろ、円が琴子を探してシャッター通りをかけずり回るシーンにしろ、びっくりするぐらいに人の気配なし!この町には主人公の家族以外、ガールフレンドの千種と悪ガキ3人衆しかいないんでは?と思わせるくらいに、登場人物が極端に削ぎ落とされている。
遠馬が通う学校の描写も、友人との交流も描かれずじまい。父親と愛人が住む家で悶々となり、そのハケ口を求めるように千種とセックスする、という映像だけが執拗に繰り返される。遠馬にとってこの町は、己に流れる血を呪いつつも性を発露させる「世界の内部」でしかない。
風呂場でシコシコとオナニーし、大量の精液が下水から川に流れ、そこで釣られたウナギを父親が旨そうに喰らいつくという、皮肉な循環(川沿いの町という設定が実に効いている!)が、この町が逃げ場のない場所であることを構造的にも語っている。
だが映画は、意外な形で「外部」が示される。円形の牢屋に閉じ込められた仁子が、突然「あの人=昭和天皇」の話を切り出すのだ。
なんで唐突に天皇論?と思わずギョッとしたが、戦争責任に無自覚だと彼女が誹謗する「あの人」と、己の暴力に無自覚な円を重ね合わせれば、「閉じられた共同体」を“王の死”によって解放させた彼女は、実は誰よりも「外部」を担った存在。「あの人」への言及は、昭和を埋葬させるにあたってトーゼンのセリフだったのだろう。
そう考えると、円という名前が内包する意味もいろいろ憶測してしまう。それは円環構造の中心に鎮座する人物として、あるいは円形の緑の園に住まう王としての比喩なのか?
『血と骨』(2004年)のビートたけしのごとく粗暴で冷徹な人物ではなく、どこか愛嬌のあるチャーミングな人物として光石研が演じているのも、興味深い。
実は鑑賞直後、「息子と父親の距離感があまりにも近すぎるのでは?」と不満を感じていた。「父と母を会わせる良い機会になるから」とはいえ、遠馬は円の釣りの誘いに唯々諾々と応じるし、何か用事がある訳でもないのに父親が居座る居間にも顔をみせる。
しかし円を「あの人」と考えれば、日本人なら誰一人無視することのできない「共同体の象徴的存在」として、その振る舞いが納得できてしまうのだ。
青山真治自身は、脚本家の荒井晴彦と「にっかつロマンポルノ的なものをつくろう」というモチベーションで『共食い』が始動したと語っている。しかし何よりも、前作の『東京公園』でも唐突にインサートされていた「天皇論」を、性と暴力が渦巻くドラマの中心に据えてしまった、ラディカルな一作と捉えるべきだろう。
- 製作年/2013年
- 製作国/日本
- 上映時間/102分
- 監督/青山真治
- 原作/田中慎弥
- 脚本/荒井晴彦
- 製作/甲斐真樹
- 音楽/山田勲生、青山真治
- 撮影/今井孝博
- 編集/田巻源太
- 菅田将暉
- 木下美咲
- 篠原友希子
- 光石研
- 田中裕子
- 宍倉暁子
- 岸部一徳
- 淵上泰史
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