アンドレイ・タルコフスキーは、徹底した芸術至上主義者だった。芸術が、人類の精神をより高いステージへ飛翔させるために必要欠くべからざるものと信じきっていた。
そんな彼にとって、共産主義の体制下で厳しい検閲を受けながら映画製作を進めることが、相当な苦痛であったことは想像に難くない。
実際、タルコフスキーは3時間にも及ぶ入魂の大作『アンドレイ・ルブリョフ』の解釈をめぐってソビエト当局と衝突。国際的名声が高まるにつれ、その創作活動には大きな制約が課されるようになったという。
だがタルコフスキーはさるインタビューで、こんなコメントを残している。
わたしが自分自身の仕事で体験している抑圧は、別に例外的なものではありません。芸術家は常に外部から抑圧を受けています。(中略)
芸術家は世界の居心地が悪い限りにおいて、世界の具合がどこか悪い限りにおいて、存在しうるのです。そしておそらくまたそのためにこそ、芸術は存在しているのです。
もし世界がすばらしいもの、調和のとれたものであったら、芸術はおそらく必要とされないでしょう
うーむ、これは非常に興味深い発言である。芸術活動における“不自由さ”こそが、逆説的に芸術の存在理由だというのだから。
より自由な環境で創作に打ち込みたいとする「亡命願望」と、ソ連の規制下でこそ己の芸術性が現前化するという「現状肯定」が不思議な共存を果たし、結果として強烈な作家性を持つ映画監督が誕生したんである。
『惑星ソラリス』(1972年)に次いで2作目のSF映画となる『ストーカー』は、原作者のストルガツキー兄弟と一緒にシナリオも手がけた作品。
3人の中年男がゾーンと呼ばれる場所へ決死の覚悟で向かう、なんて話は今だったら『CUBE』とか『SAW』みたいな新感覚トラップムービーになるのかもしれない。
しかしタルコフスキーの手にかかれば、雨、水、土といった精霊的モチーフを映像的な足がかりにして、スーパーナチュラルな半醒半睡映画に仕立てあげてしまう。その超自然的視線の向こうに、いびつな亡命願望が秘匿されている。
そもそも、ゾーンとは何ぞや?映画の説明によると、そこは“願いが叶う場所”であり、“インスピレーションが与えられる場所”だそうな。
要はタルコフスキーの亡命願望が、露骨に表出したものと考えて良ろしかろう。しかし映画で結論づけられるのは、「ゾーンって本当に人々の願いを叶える場所なの?」という懐疑である。
私利私欲ではなく、できるだけ数多くの人間の願いが叶うことが己の存在意義だと考える案内役(ストーカー)の男、悪事に利用されないように爆弾でゾーンを破壊しようとする科学者、単純に創作の神に祝福されたいと願う作家。
三者三様のディスカッションによって、その存在意義が崩れさっていく。それって、タルコフスキーに巣食う「亡命願望」と「現状肯定」の二重性そのまんま。彼は晩年、結局パリに亡命した訳だが、この時期の内面をすごく正直に自己告白しているんではないか。
ストーカーの一人娘は、父親の帰還後、不思議な超能力を覚醒させる。外部(ゾーン)に足を踏み入れるのではなく、内部(ソ連)に留まることによって、奇跡が生まれるのだ。
『ストーカー』は、単に廃墟→滝→トンネルを経てゾーンに向かう道程を描いた、ピクニック映画ではない。タルコフスキーの祈りにも似た想いが重層的に焼き付けられた、極めて倫理的なフィルムなのである。
- 製作年/1979年
- 原題/Stalker
- 製作国/ソビエト
- 上映時間/163分
- 監督/アンドレイ・タルコフスキー
- 原作/アルカージー・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー
- 脚本/アルカージー・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー
- 撮影/アレクサンドル・クニャジンスキー
- 音楽/エドゥアルド・アルテミエフ
- 美術/アンドレイ・タルコフスキー
- アレクサンドル・カイダノフスキー
- アリーサ・フレインドリフ
- アナトリー・ソロニーツィン
- ニコライ・グリニコ
- ナターシャ・アブラモヴァ
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