アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの二大スタアがアウラを放射しまくる、クライム・アクション
21世紀の今となっては想像すらできないが、かつて銀幕の世界では確実に「スタア」が映画の骨格を築きあげた時代があったんである。その肉体から沸き起こるアトモスフィアが、映像を規定し、ドラマを規定し、映画全体を規定する。それはシネマ黎明期の幸せな時代だった。
やがて、ヒッチコックの有名な「俳優は家畜同然」発言を例に挙げるまでもなく、演出家が映画全体を統率し始めると、俳優の存在価値は物語を構成するワン・ピースにしか過ぎなくなる。
しかし、スタアは死滅した訳ではない。ジャン・ギャバン、クラーク・ゲーブル、ハンフリー・ボガート、ポール・ニューマン、マーロン・ブランドー、マレーネ・デートリッヒ、イングリッド・バーグマン、ヴィビアン・リー、マリリン・モンロー…。
映画ファンは、時代のスタアをその眼にしっかり残さんとして、映画館に足を運び、彼らの一挙手一投足に身も心も焦がした。スタアとは、映画という虚構世界を逸脱するほどのアウラを発しまくる、真に選ばれし者なんである。
んでもって、『ヒート』(1995年)である!アル・パチーノとロバート・デ・ニーロである!二大スタアそろい踏みである!かつて『ゴッドファーザー PART II』(1974年)でクレジットされたことのある両者であるが、共演する場面はなかったため、この映画が実質的な初共演作と言って良ろかしろう。
パチーノとデ・ニーロという固有名詞が醸し出す特権性。マイケル・マンは狂喜乱舞しながら、この二人に正義の番人と悪のヒーローの役を割り当て、現代のフィルムノワールを復権しようとしたんではないか。
アラン・ドロン&ジャン・ポール・ベルモンドの『ボルサリーノ』(1970年)のごとく、あるいはジャン・ギャバン&ジャン・ポール・ベルモンドの『冬の猿』のごとく。
『ヒート』においては、この両雄が絶対的な存在である。だからデ・ニーロ率いる犯罪チームが大挙したロス市警に取り囲まれても、たった3人で包囲網を突破してしまうというアンビリーバボーな展開も“アリ”なんである。
ロバート・デ・ニーロの強烈なアウラによって、それは全くもって“アリ”になってしまうんである。そこにマシンガンを抱えたパチーノが登場してアウラとアウラがぶつかった瞬間、沸点は最高潮に達し、その勢いで地球は自転を早め、果ては宇宙のビッグバンを引き起こす。映像は完全にこの二人に支配されるんである。
執拗なまでにLAの夜景を撮らなければ気が済まないマイケル・マンは、クライマックスの舞台に夜のロサンゼルス空港を用意した。彼のフェイバリット・プレースで、二大スタアは最後の決戦に挑む。
光と影の存在である彼らを、光と影のコントラストを強調した絵作りで見せ、ラストは戦い終わった男たちの熱い握手で終わらせる!ここまで徹底的にスタア・ムービーをフィルムノワールという意匠を借りて創り上げたことに、僕は感動すら覚える。見事です。
《補足》
音楽についても言及させていただくなら、エリオット・ゴールデンサールによるサウンドトラックは実に素晴らしいと思う。
モービー、ブライアン・イーノ+U2、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、クロノス・カルテットなど、現代音楽からロック・ミュージックまでの著名ミュージシャンを用いて、現代音楽風ミニマル・ミュージックを奏でている。
- 原題/Heat
- 製作年/1995年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/171分
- 監督/マイケル・マン
- 製作/マイケル・マン、アート・リンソン
- 製作総指揮/アーノン・ミルチャン、ピーター・ジャン・ブルージ
- 脚本/マイケル・マン
- 撮影/ダンテ・スピノッティ
- 美術 ニール・スピサック
- 音楽/エリオット・ゴールデンサール
- 衣装 デボラ・L・スコット
- アル・パチーノ
- ロバート・デ・ニーロ
- ヴァル・キルマー
- ジョン・ヴォイト
- トム・サイズモア
- ダイアン・ヴェノーラ
- エイミー・ブレネマン
- アシュレイ・ジャッド
- ナタリー・ポートマン
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