僕は女性のわがままも、喜怒哀楽の激しさも、屈託のない裏切りも、悪びれない嘘も、すべてを愛そうと捲まずたゆまず、努力している者である。
もし貴兄が『女は女である』(1961年)のアンナ・カリーナを愛せないとしたら、おそらくこの映画を愛すことはできないだろう。「24時間以内にこどもがほしいの!」と駄々をこねるアンナは、このうえなくコケットリーで、このうえなくチャーミングだ。
例えば、水兵さんルックに身を包んだ彼女は、ストリップ・ショーでこんな歌を唄う。
どうしてかしら みんな あたしに夢中になるの
でも わけは簡単 こういうことよ
きれいな胸と 紫色に輝く瞳
水兵さんの上着と おどけたパンティいい娘じゃないの つれない女なのよ
でも男は誰も怒らない だって あたしは
とてもきれいだから
かの夏木マリ女史も、ゴダール・マニアの元ピチカートファイヴ小西康陽がプロデュースした『私のすべて』という曲で、「すべて許されるの、それは私がキレイだから」と唄っているが、やっぱこういうのが言い張れるのって“かわいい女の特権”だと思うのだよ、ワシは。
ジャン・クロード・ブリアリに焼きもちをやかせたくて、あっさりとベルモンドと寝てしまう気まぐれも、僕は愛する。男にとってアンナ・カリーナというミューズは、まぶしいくらいに女だ。故に女は女であるのである。
もともとこの作品は、「登場人物が歌わないミュージカル・コメディ」という発想でつくられたらしいが、自由すぎるそのアイディアにまず脱帽!
デザイン的ですらあるクールな「映像」と、ミシェル・ルグランによる小粋な「音」のコラージュ感覚は(おそらくこの映画においてはソニマージュという概念は通用しない)、サンプリングやリミックスという技法に慣れ親しんだ僕達の世代ですら、新鮮な驚きと喜びを与えてくれる。
ゴダールが初めて撮ったカラー映画ということもあり、色そのものを愛でるかのようなヴィヴィッドな色彩感覚も楽しい。原色を多用したセンスは、まさにポップ・アート的。カメオ出演でちょこっとだけ顔を出しているジャンヌ・モローに向かってジャン・ポール・ベルモンドが、「元気かい?ジュールとジムはどう?」と聞いてみたり(ジュールとジムはトリュフォーの『突然炎のごとく』(1962年)の登場人物である)、ジュークボックスに『ピアニストを撃て』(1959年)のジャケットがあったり、ヌーヴェルヴァーグな小ネタも満載だ。
現在進行形でゴダールはファッションとして消費されてしまっている部分がかなり大きいと思うが、やっぱり40年以上昔に製作された映画とは思えないほど『女は女である』はクールだ。
他愛のない三角関係モノを、いや、三角関係モノだからかもしれないが、現在進行形で鑑賞せしめることのできる映画ってのは、ちょっとすごいと思う。もちろん、アンナ・カリーナの可愛らしさだって現在進行形だ。
女という存在は、いつだって現在進行形で僕達の前に立ちはだかる。だからこの映画を愛する理由は、女性を愛する理由にちょっと似ている。
- 原題/Une Femme Est Une Femme
- 製作年/1961年
- 製作国/フランス、イタリア
- 上映時間/84分
- 監督/ジャン・リュック・ゴダール
- 脚本/ジャン・リュック・ゴダール
- 製作/カルロ・ポンティ、ジョルジュ・ド・ボールガール
- 撮影/ラウール・クタール
- 音楽/ミシェル・ルグラン
- 美術/ベルナール・エヴァン
- アンナ・カリーナ
- ジャン・クロード・ブリアリ
- ジャン・ポール・ベルモンド
- マリー・デュボワ
- ジャンヌ・モロー
- カトリーヌ・ドモンジョ
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