『女は女である』(1961)
映画考察・解説・レビュー
『女は女である』(原題:Une Femme Est Une Femme/1961年)は、ジャン=リュック・ゴダールが恋人アンナ・カリーナを主演に撮り上げたヌーヴェルヴァーグ初期の傑作。カリーナ演じるアンジェラの気まぐれな恋と自由な欲望を、原色の映像とミシェル・ルグランの音楽で軽やかに描く。
愛すべき“わがまま”の美学
僕は女性のわがままも、喜怒哀楽の激しさも、屈託のない裏切りも、悪びれない嘘も、すべてを愛そうと捲まずたゆまず、努力している者である。
もし貴兄が『女は女である』(1961年)のアンナ・カリーナを愛せないとしたら、おそらくこの映画を愛すことはできないだろう。「24時間以内にこどもがほしいの!」と駄々をこねるアンナは、このうえなくコケットリーで、このうえなくチャーミングだ。
例えば、水兵さんルックに身を包んだ彼女は、ストリップ・ショーでこんな歌を唄う。
どうしてかしら みんな あたしに夢中になるの
でも わけは簡単 こういうことよ
きれいな胸と 紫色に輝く瞳
水兵さんの上着と おどけたパンティいい娘じゃないの つれない女なのよ
でも男は誰も怒らない だって あたしは
とてもきれいだから
かの夏木マリ女史も、ゴダール・マニアの元ピチカートファイヴ小西康陽がプロデュースした『私のすべて』という曲で、「すべて許されるの、それは私がキレイだから」と唄っているが、やっぱこういうのが言い張れるのって“かわいい女の特権”だと思うのだよ、ワシは。
ジャン・クロード・ブリアリに焼きもちをやかせたくて、あっさりとベルモンドと寝てしまう気まぐれも、僕は愛する。男にとってアンナ・カリーナというミューズは、まぶしいくらいに女だ。故に女は女であるのである。
この「わがまま」の表現は、単なるキャラクター描写に留まらない。60年代初頭のゴダールにとって、アンナ・カリーナは“映画の中に生きる女性”であると同時に、“映画そのもの”を象徴する存在だった。
気まぐれで、気ままにカメラを挑発し、時に愛し、時に拒む。つまり、彼女は監督にとって“現実を翻弄する映画”そのものの化身なのだ。
ゴダール的ポップの誕生
もともとこの作品は、「登場人物が歌わないミュージカル・コメディ」という発想でつくられたらしいが、自由すぎるそのアイディアにまず脱帽!デザイン的ですらあるクールな「映像」と、ミシェル・ルグランによる小粋な「音」のコラージュ感覚は(おそらくこの映画においてはソニマージュという概念は通用しない)、サンプリングやリミックスという技法に慣れ親しんだ僕達の世代ですら、新鮮な驚きと喜びを与えてくれる。
ジャン=リュック・ゴダールが初めて撮ったカラー映画ということもあり、色そのものを愛でるかのようなヴィヴィッドな色彩感覚も楽しい。原色を多用したセンスは、まさにポップ・アート的。
彼はここで“現実をドキュメントする映画”から、“イメージを祝祭する映画”へと大きく舵を切った。つまり、モノクロの〈思想の時代〉からカラーの〈感覚の時代〉への移行点に、この一本が位置しているのだ。
カメオ出演でちょこっとだけ顔を出しているジャンヌ・モローに向かってジャン・ポール・ベルモンドが、「元気かい?ジュールとジムはどう?」と聞いてみたり(ジュールとジムはトリュフォーの『突然炎のごとく』(1962年)の登場人物である)、ジュークボックスに『ピアニストを撃て』(1959年)のジャケットがあったり、ヌーヴェルヴァーグな小ネタも満載だ。
この引用の連鎖は、後のタランティーノやウェス・アンダーソンが確立した“ポップな映画的自己言及”の原型でもある。ゴダールは観客にウィンクしながら、映画史そのものを編集素材として再構築した。つまり彼にとっての“愛”とは、常に〈引用と反復〉の美学なのである。
映画=女、そして愛という不条理
現在進行形でゴダールはファッションとして消費されてしまっている部分がかなり大きいと思うが、やっぱり40年以上昔に製作された映画とは思えないほど『女は女である』はクールだ。
他愛のない三角関係モノを、いや、三角関係モノだからかもしれないが、現在進行形で鑑賞せしめることのできる映画ってのは、ちょっとすごいと思う。もちろん、アンナ・カリーナの可愛らしさだって現在進行形だ。
女という存在は、いつだって現在進行形で僕達の前に立ちはだかる。だからこの映画を愛する理由は、女性を愛する理由にちょっと似ている。
アンナ・カリーナは、単なるゴダールの恋人でも、撮られる女優でもない。彼女は“カメラを見返す女”だった。つまり、男性的視線の対象でありながら、それを自覚的に戯画化し、挑発する主体でもあった。
『女は女である』のアンナは、可愛いだけの存在ではない。男の理想を演じてみせながら、その理想を軽やかに裏切る。そこにこそ、映画というメディアの“自由”があるのだ。
『女は女である』というタイトルは、まるで定義不能の宣言文だ。女とは何か、を問う代わりに、ゴダールは「女はただ女である」と断言する。説明も理屈も拒絶し、存在そのものを祝福する。だからこの映画は、恋愛映画であると同時に、“映画という名の女性”へのラブレターなのだ。
ゴダールがカリーナを撮るという行為は、恋することと同義だった。彼女が笑えばカメラは寄り、拗ねればパンし、沈黙すれば音楽が流れる。カメラの運動そのものが感情の波に呼応している。
つまり、映像言語の誕生を、恋愛の動的なリズムで描いた映画。そこにこそ、この作品がいまだに“現在進行形”であり続ける理由がある。
女を愛することは、理解することではなく、受け入れることだ。映画もまた、理解されるよりも、愛されるべき存在である。『女は女である』はその両方を体現した、永遠の“恋愛する映画”なのである。
- 原題/Une femme est une femme
- 製作年/1961年
- 製作国/フランス、イタリア
- 上映時間/84分
- ジャンル/コメディ、恋愛、ミュージカル
- 監督/ジャン=リュック・ゴダール
- 脚本/ジャン=リュック・ゴダール
- 製作/カルロ・ポンティ、ジョルジュ・ド・ボールガール
- 撮影/ラウール・クタール
- 音楽/ミシェル・ルグラン
- 編集/アニエス・ギユモ、リラ・エルマン
- 美術/ベルナール・エヴァン
- アンナ・カリーナ
- ジャン=クロード・ブリアリ
- ジャン=ポール・ベルモンド
- マリー・デュボワ
- ジャンヌ・モロー
- カトリーヌ・ドモンジョ
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