『危険がいっぱい』(1964年/ルネ・クレマン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『危険がいっぱい』は、ルネ・クレマンが監督を務めた、南仏の豪邸を舞台に展開するサスペンス。ギャングのボスの妻に手を出して命を狙われるマルクは、未亡人バルバラの運転手として彼女の屋敷に潜り込む。しかし、バルバラと従妹メリンダは屋敷の隠し部屋に指名手配中のバルバラの愛人を匿っており、容姿の似たマルクを身代わりとして殺害する完全犯罪を企てている。純真を装うメリンダのマルクへの執着や、ギャングの冷酷な追跡が複雑に絡み合い、登場人物全員の欲望がエゴイスティックに衝突した果てに、誰も予想しえない残酷で皮肉な結末が訪れる。
邦題の罪とネコ科の女たちの残酷な爪痕
ルネ・クレマン監督とアラン・ドロンという黄金コンビが放った、『危険がいっぱい』(1964年)。
『太陽がいっぱい』(1960年)を安直に引用したこの脳天気な邦題は、映画に込められた変態的なまでの官能性と、背筋の凍るようなサディズムを完全に取りこぼしている。
本作のフランス語の原題は『Les Félins』、すなわち「ネコ科の動物たち」。この言葉が内包しているのは、。闇夜で獲物を狙いすます獰猛さ、音もなく忍び寄る優雅さ、そして捕まえたネズミをすぐには殺さず、嬲りものにして弄ぶという極めて残酷で気まぐれな捕食性。
物語は、ギャングに追われるいかさまカード師のマルクが、南仏の富豪未亡人の屋敷に転がり込むところから幕を開ける。その屋敷に住む未亡人のバーバラと、その従妹であるメリンダこそが、原題の示す恐るべき「ネコ科の女たち」だった。
逃亡するジゴロと、彼を匿いながらも陰謀を巡らせる女たち。このジメジメとした狂気の愛憎劇を、名匠ラロ・シフリンの都会的で小粋なジャズ・スコアが軽やかに包み込んでいく。
サウンドだけを聴けばお洒落なサスペンス映画のようだが、その軽快なリズムに乗せて物語は確実に崩壊へと向かっていく。騙しているつもりが騙され、逃げているつもりが檻のど真ん中へと誘導されている。
この圧倒的なまでに美しく、恐ろしい狩猟のプロセスこそが、本作の真骨頂なのである。
狩猟者から獲物へ転落する美の監禁
若き日のジェーン・フォンダ演じるメリンダは、一見すると無邪気で無垢な少女のように振る舞いながら、その裏にとてつもなく狡猾で計算高い顔を隠し持っている。
特に下着姿で男を挑発し、冷酷に罠へと誘い込んでいくその姿は、後年彼女が『バーバレラ』(1968年)で世界中の男たちを熱狂させたセックスシンボルの原型を強烈に感じさせる。
彼女は男を愛する。だが、その愛は、愛するがゆえに完全に支配し、物理的に己の手元に閉じ込めようとする、存在そのものの強奪なのだ。
恐るべきメリンダの毒牙にかかり、獲物へと転落していくのがアラン・ドロン。『太陽がいっぱい』で彼が演じたトム・リプリーは、他者の人生を丸ごと乗っ取り、残酷なまでに世界を支配しようとする野心に満ちた狩人だったが、この映画は完全に真逆。
その容姿・肉体は完璧なまでに美しいが、精神はどこまでも流されやすく、常に誰かの庇護を求め、結果的に飼いならされてしまう脆弱な存在として描かれている。彼はジゴロとして女を食い物にしているようでいて、実は最初から他者に所有される運命を背負わされた、悲しき男なのだ。
ドロンの真の魅力は、世界を能動的に支配することにではなく、そのあまりの美しさゆえに抗いがたく誰かに支配され、無惨に踏みにじられてしまう、受動性のエロティシズムにある。
ジェーン・フォンダに監禁されるという衝撃のラストは、愛の形が「崇拝」から「所有」へと完全に変質し、狂気へと行き着いた必然の結末。
そして何よりも、ドロンに対するルネ・クレマン監督自身の異常なまでの執着が、物語という形を借りてスクリーンに暴走した結果なのだ。
カメラという名の檻と偏執的サディズム
ルネ・クレマンの映画作法に通底しているのは、「見る者の欲望」への強烈な意識だ。『太陽がいっぱい』でも、彼のカメラはアラン・ドロンの肉体を舐め回すように捉えていた。
だが『危険がいっぱい』では、その「見る」という行為が持つ暴力性が、物語の内部へと完全に転移している。ジェーン・フォンダが屋敷の隠し部屋にドロンを閉じ込め、食事を与えながら彼を監視する行為。
それはまさに、クレマン自身がカメラという名の装置を通して、ドロンという俳優を己の世界に所有し、支配する行為のメタファーに他ならない。
クレマンは彼に役を「演じさせる」ことで自由を奪い、「撮る」ことで逃げ場のないフィルムの中に永久に閉じ込める。つまり、この映画における真の捕食者はジェーン・フォンダではなく、スクリーンの背後でカメラのファインダーを覗き込んでいるルネ・クレマンその人なのだ。
ラロ・シフリンのジャズがどれほど軽やかに鳴り響き、即興的な自由を歌い上げようとも、登場人物たちの運命は最初から監督の手によって残酷に決定づけられている。
その都会的な軽快さは、男が絶対に逃れられない「檻」の息苦しさと閉塞感をより際立たせるための、極めてサディスティックなスパイスとして機能している。
逃げる男と追う女、自由を渇望する者とそれを支配しようとする者。この二項対立の果てに、愛は完全なる恐怖へと姿を変え、至高の美は暗い檻の中へと閉じ込められる。
アラン・ドロンは、永遠に再生され続ける「映画」というシステムそのものに幽閉された、哀れな生贄なのである。
- 監督/ルネ・クレマン
- 脚本/ルネ・クレマン、パスカル・ジャルダン、チャールズ・ウィリアムズ
- 製作/ジャック・バール
- 制作会社/シプラ・フィルム、シネ・アリアンス
- 原作/デイ・キーン
- 撮影/アンリ・ドカエ
- 音楽/ラロ・シフリン
- 編集/ヴィクトリア・メルカントン
- 美術/ジャン・アンドレ
- 衣装/ピエール・バルマン
- 録音/ジャン・リウード
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