ソフィア・コッポラは、唯一無二の存在である。彼女は自分がスーパーセレブであることを隠そうともせず、むしろその特権性を十二分に活用して、セレブ系ガーリー・ムービーを撮り続けてきた。
映画に登場するのは常に容姿端麗なボーイズ&ガールズであり、地位も名誉も兼ね備えたスーパーリッチ達だ。
この「自分の知っている世界だけを描く」という割り切りの良さこそが彼女のストロング・ポイントであって、恵まれすぎている自分の出自に引け目を感じ、「中産階級やブルーカラーの人間を描こう」なんぞ微塵も考えていないのが良ろしいんである。
『SOMEWHERE』もまた、ソフィア・コッポラでしか撮りえない映画である。ハリウッドの伝説のホテル、シャトー・マーモンドに暮らす俳優のジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)のグダグダ退廃ライフを、ひたすらミニマルに描くだけ。
パツキンの双子ポールダンサーを部屋に招いたり、娘のクレオ(エル・ファニング)とwiiに興じたり、パーティで知り合ったエロギャルと一戦交えたりと、レイジー極まりない日々。ワンカットワンカットの冗長さが、「時間を持て余している感」をありありと付与してくれる。
音楽のチョイスも相変わらずセンスのいいものばっかで、さすがはオサレ番長と平伏するしかなし。特にPhoenixの『Love Like a Sunset』は、いかにもソフィアの好みらしいフレンチ・ギター・ポップで、甘酸っぱさ全開。
後で知ったんだが、ソフィア・コッポラってPhoenixのボーカリストであるトーマス・マーズの子供を産んだんだってね。あれ?クエンティン・タランティーノとはいつ別れたんだ?
という訳で僕自身『SOMEWHERE』はとても大好きな映画なんだけれども、さすがにジョニー親子がイタリアから戻ってきたあたりからは、心地よい冗長さが単なる散漫にしか感じられなくなってしまった。
理由は極めて明白。ミニマルを指向した映画であれ何であれ、物語は必ず始まり、物語は必ず終わる。終わらせるためには、物語にケリをつけなければならない。ケリをつけようとすると、物語は必然的に終焉に向かってドラマツルギーが生成されてしまう。
自堕落ライフを淡々と描くぶんには良かったものの、「俺の生活って一体ナニ?」と己を顧みるようになると、ジョニー・マルコの再生という“物語”が自立して、スターの私生活を定点観測するだけのミニマリズムが雲散霧消し、通俗的なドラマに転換してしまう。
これが僕にはやや不満なのだ。電話口で泣きながら妻に「俺は空っぽの男だ…」と打ち明けるシーンなんぞ、エモーショナルすぎる。
砂漠地帯のサーキット場で、大きなエンジン音を鳴らしながら黒のフェラーリが走り回るというシーンで映画は幕を開ける。
「どれだけセレブな生活をしていても俺の人生は円をグルグル回っているだけだ!」という分かりやすい暗喩。そんな記号的表象を、サラリとミニマリズムのなかで昇華させてしまう手管は、やっぱりソフィアならでは。
これからも映画で、セレブとしての真っ正直な自己告白をしてくれることを期待いたします。
- 原題/SOMEWHERE
- 製作年/2010年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/98分
- 監督/ソフィア・コッポラ
- 製作/G・マック・ブラウン、ロマン・コッポラ、ソフィア・コッポラ
- 製作総指揮/フランシス・フォード・コッポラ、ポール・ラッサム、フレッド・ルース
- 脚本/ソフィア・コッポラ
- 撮影/ハリス・サヴィデス
- プロダクションデザイン/アン・ロス
- 衣装デザイン/ステイシー・バタット
- 編集/サラ・フラック
- 音楽/フォニックス
- スティーヴン・ドーフ
- エル・ファニング
- クリス・ポンティアス
- ララ・スロートマン
- クリスティーナ・シャノン
- カリサ・シャノン
- アマンダ・アンカ
- エミリー・ケンパー
- ミシェル・モナハン
- ベニチオ・デル・トロ
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