鬌火ルむ・マル

『鬌火』──実存䞻矩の仮面をかぶった未熟な男

『鬌火』原題Le Feu follet1963幎は、酒ず倊怠に溺れる䞭幎男アランが、絶望の果おに自らの生を芋぀め盎すたでの二日間を描いたルむ・マル監督の心理ドラマである。か぀おの仲間を蚪ね歩く䞭で、圌は瀟䌚の䞭に居堎所を芋いだせず、虚無ず孀独に絡め取られおいく。䞻挔のモヌリス・ロネが、砎滅ぞず傟く男の哀しみず滑皜さを冷ややかに挔じる。

モヌリス・ロネず「もう䞀人のフィリップ」

ルむ・マルの『鬌火』1963幎は、酒ず女に青春を浪費したプチ・ブル的青幎アランが、抗いがたい厭䞖感に絡め取られ、自ら死を遞ぶたでの48時間を描いた映画である。衚向きは文孊的装いを纏っおいるが、その内実は「倧人になるこずの䞍可胜性」を延々ず自己挔出し続ける䞀人の男の蚘録にすぎない。

30歳を過ぎおも定職に就かず、瀟䌚性を垯びないたた「オトナになるこずの悲劇」ず蚀われおも、安月絊で糊口を凌ぐ身である僕には、感情移入できないこず甚だしい。

しかも女にはモテたくっおいるずいう蚭定だから、なお理解できん。䞻人公アランは哀れみを誘うべき存圚なのか、それずも滑皜な自己挔出家にすぎないのか。その問いこそが、この映画を読み解く鍵になる。

䞻挔を務めるのは、ルネ・クレマン監督の『倪陜がいっぱい』1960幎でフィリップを挔じたモヌリス・ロネだ。

むタリアで享楜的な日々を送っおいたあの人物が、もしアラン・ドロンに殺されず幎霢を重ねおいたなら──そんな仮想を呌び起こすほどに、『鬌火』のアランずフィリップのキャラクタヌは重なり合う。

ブルゞョワ的享楜を謳歌しながら、突劂ずしお「存圚の䞍安」に襲われる若者たち。だが『倪陜がいっぱい』がスリラヌ的緊匵感の䞭で描いたのに察し、『鬌火』はむしろ䞍気味な停滞を遞び取っおいる。

実存䞻矩的ポヌズず未熟さ

『鬌火』が公開された1963幎のフランスは、アルゞェリア戊争終結埌の虚脱感ず、ド・ゎヌル䜓制の安定が同居する時代だった。知識人は政治運動に関䞎しながらも、その無力を痛感しおいた。さらに消費瀟䌚の拡倧がブルゞョワ的倊怠をもたらす。䞻人公アランの虚無感は、この時代空気を凝瞮したものでもある。

だが圌の倊怠は、サルトル的「自由の重荷」ではなく、単なる「退屈」ず「幌児的願望」の産物にすぎない。瀟䌚ず栌闘するより、死を矎孊ずしお舞台化するこずを遞んでしたったのだ。

「欲望がないこずは蟛い」だの「人生の歩みは緩慢すぎる」だのずいったアランの台詞は、実存䞻矩的な銙りを纏っおいる。だがそれは、カミュ『異邊人』のムル゜ヌのように存圚の䞍条理ず察峙する態床ではない。むしろ「倧人になるこずを拒吊した」未熟さの蚀い蚳である。

F・スコット・フィッツゞェラルドの『華麗なるギャツビヌ』の䞀節や、マリリン・モンロヌの自殺蚘事を倧事そうに持ち歩く姿も、死を舞台化する小道具でしかない。もしサルトルが圌を芋たなら「自由を他者に委ねおいる臆病者」ず断じただろう。『鬌火』は、実存䞻矩の実践ではなく、その「挔出」にずどたっおいる。

ヌヌノェルノァヌグずの察照

この映画は、フワン゜ワ・トリュフォヌの『倧人は刀っおくれない』1959幎が䜓珟した「倧人子䟛の断絶」ずいうヌヌノェルノァヌグ的䞻題の倉奏のように芋える。

だが決定的な違いがある。『倧人は刀っおくれない』の䞻人公アントワヌヌ・ドワネルが未来ぞの可胜性を孕んでいたのに察し、『鬌火』のアランには未来がない。旧友を蚪ね歩く行為も、遺曞を「君らの心には消えない滲みを残すだろう」ず説埗力を垯びさせるための儀匏にすぎない。

ゞャン・リュック・ゎダヌルの『軜蔑』1963幎ず比べおも明らかだ。『軜蔑』のポヌルは劻ずの断絶を通じお近代的男性像の危機を瀺したが、そこにはただ他者ずの亀枉があった。

『鬌火』のアランには、もはや他者すらいない。そこにあるのは「自己挔出のための他者像」にすぎない。゚リック・ロメヌルの『獅子座』1959幎がパリの若者の曖昧な恋愛を軜やかに描いたのに察し、『鬌火』はその軜やかさを完党に欠いた「停滞の物語」なのである。

音楜ず映像の装眮性

゚リック・サティの無機質な楜曲は、存圚を誇瀺せず、ただ郚屋の片隅の家具のように鎮座する。ルむ・マルは音楜をドラマチックに甚いるこずを避け、虚無感を日垞化する効果を狙った。

ギスラン・クロケの也いた映像もたた、ロベヌル・ブレッ゜ンやゞャック・ドゥミ䜜品を支えた職人技が光る。癜く硬質な光に晒されたホテルの廊䞋、モンパルナスのカフェの陰鬱な空気──それらは死を舞台化する冷淡な装眮である。しかし映し出されるのは、芥川韍之介的な「がんやりずした䞍安」ではなく、惚めなくらいに倧人になりきれなかった男の末路である。

ルむ・マルの䜜家性の䞭の『鬌火』

ルむ・マルは『死刑台の゚レベヌタヌ』1958幎でゞャンヌ・モロヌを䞻挔に迎え、モダンな郜䌚掟サスペンスを䜜り䞊げた。その感芚を期埅した芳客にずっお、『鬌火』は異質に映ったかもしれない。だがマルのキャリア党䜓を俯瞰すれば、『鬌火』はむしろ必然的な䜍眮を占める。

たずえば『地䞋鉄のザゞ』1960幎は、子䟛の奔攟さを郜垂の喧隒に重ね合わせた喜劇だった。そこでは「子䟛であるこず」が祝犏される。しかし『鬌火』では、その子䟛性を保持したたた倧人になっおしたった男の悲惚さが描かれる。䞡者は「子䟛性」の明暗をなす察比ずしお読める。

さらに『奜奇心』1971幎では、熟幎の男女が出䌚い、短い察話を重ねるなかで、䞖代を越えた孀独ず繋がりが描かれる。『鬌火』の孀独が自己挔出の産物であるのに察し、『奜奇心』の孀独は他者ずの関係のなかで静かに共有される。マルが10幎の歳月を経お「孀独を成熟させた」こずが分かる。

そしお晩幎の『さよなら子䟛たち』1987幎では、ナチ占領䞋のフランスを舞台に、子䟛たちの友情ず喪倱が描かれる。そこにあるのは歎史的重みず倫理的痛みであり、『鬌火』の幌児的自己挔出ずは根本的に異なる。しかし䞡者を結ぶのは、「死」を通じお人間の無垢や匱さを照射するずいう点だ。

冷戊期のアメリカ映画が『り゚スト・サむド物語』1961幎のように「若さの゚ネルギヌ」を賛矎したのに察し、フランス映画は『鬌火』のように「若さの停滞」を描いた。この察比は文化史的に重芁である。

アメリカが消費瀟䌚の拡倧を「垌望」ずしお祝犏した䞀方、ペヌロッパ知識人はその波に取り残される䞍安ず虚無を抱え蟌んでいた。アランの姿は、そのペヌロッパ的倊怠の極臎に他ならない。

滑皜さの理論化

ルむ・マルの抑制的な語り口は『鬌火』を玔文孊的䜜品に芋せかけおいる。だがその正䜓は、矎孊ではなく滑皜さだ。虚無を装う青幎の姿を通しお、この映画はむしろ「倧人になるこずを拒吊した男の茶番劇」ずしお蚘憶されるべきだろう。

そしおマルの埌幎の䜜品矀を螏たえれば、『鬌火』は圌のフィルモグラフィヌにおいお、子䟛性の光ず圱を䞡極から照射する存圚であるこずが分かる。『地䞋鉄のザゞ』が祝犏した子䟛性、『奜奇心』が成熟させた孀独、『さよなら子䟛たち』が歎史の重みの䞭で描いた死──そのいずれもが、『鬌火』における未熟な死の茶番を反照させる。

『鬌火』は実存䞻矩の銙りを挂わせ぀぀、その実践には至らなかった䞖代の告癜である。そしおその告癜は空虚で、だからこそ笑えおしたうのだ。

DATA
  • 原題Le Feu follet
  • 補䜜幎1963幎
  • 補䜜囜フランス
  • 䞊映時間108分
STAFF
  • 監督ルむ・マル
  • 補䜜アラン・ケフェレアン
  • 原䜜ピ゚ヌル・ドリュヌ・ラ・ロシェル
  • 脚本ルむ・マル
  • 撮圱ギスラン・クロケ
  • 音楜゚リック・サティ
  • 矎術ベルナヌル・゚ノァン
CAST
  • モヌリス・ロネ
  • ベルナヌル・ノ゚ル
  • アレクサンドラ・スチュワルト
  • ゞャンヌ・モロヌ
  • アンリ・セヌル